2013年08月30日

カサゴ Sebastiscus marmoratus

Sebastiscus marmoratus

生き物の姿は、その種に共通して必ず見られる特徴と、ひとりひとり異なる個体差との組み合わせでできている。共通して必ず見られる特徴は、その生き物の種を見分ける根拠になるもので、学術的な図鑑にはそれがきちんと書かれている。例えばカサゴであれば、「胸鰭上半部の後縁は浅く湾入」、「背鰭は12棘12軟条」、「胸鰭に遊離軟条がない」、等々。

けれども海釣りでカサゴに出会うたびに、そういった特徴のひとつひとつを確認して初めて「ああ、カサゴだ」と分かるわけじゃない。ひとたびカサゴという魚を知っていれば、釣り上げた瞬間に「カサゴだ」と判断できる。総体としての対象物からその特徴を抽象的に掴みとることができる、人間のすごい能力だ。この能力がなければ、我々は友人の顔を覚えるためにその特徴を事細かにメモしておき、待ち合わせの時には周りに立っている人間ひとりひとりをそのメモと照合してみなければならないだろう。「耳たぶの下端から地面に平行に伸ばした直線は、鼻の先端と上唇上端との中点と直角に交わる…」というように。

実際にたくさんのカサゴに出会ってきた。彼らの身体の模様は特に個体差が大きい。赤いのもいれば黒っぽいのも、黄色いのもいるし、斑点だって大きかったり小さかったり多かったり少なかったり。でも釣り糸の先にぶら下がる彼らを見た瞬間に「カサゴだ」と脳が答えを出す、その根拠になる特徴はガサガサ開いた大きな口と、ツンツン棘が飛び出しているようなひれ、それに背中に入った「白黒白黒」のJR線路の地図記号だ。特にこの線路記号は何より有力なカサゴの特徴として自分の脳に刻み込まれているので、これが目についた途端に快楽物質がドバッと分泌されるのがよく分かる。


 
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2013年08月23日

ポルカドット・ローチ Schistura corica

Schistura corica

お盆休みに入る3日前、ポルカドット・ローチが死んだ。

元気な魚で、小型魚ばかりの水槽の中ではかなり存在感のある6〜7センチの体をびゅんびゅん飛ばして泳いでいる姿があまりにも当たり前だったから、その体がすっかり生気を失って流木の脇にごろんと横たわっている光景は、まさしく晴天の霹靂で目を疑う思いだった。活き活きとした姿を最後に見てから2日も経っていなかったはず。死ぬような予兆は全く見て取ることができなかった。

飼っていれば当然、魚が死ぬこともある。
2センチにも満たないような小型魚の身体は、同居人のエビたちがけっこうあっという間に骨だけにしてしまう。縁もゆかりもないどこかの地中に埋めるより、この水槽で生きた肉体の行く末としては相応しい気がして、最近はエビが食べるにまかせていた。けれども、ポルカドット・ローチはさすがに大きすぎて、エビたちは早々に食べ飽きてしまったようだった。そうなると水底で徐々にふやけていく白い身体はいかにも不憫で、今回は埋葬することにした。浅草寺の屋根とスカイツリーが見える、はとバス駐車場脇の植え込みに埋める。

彼のなんと言っても可愛いかったのは、まるでワクワクした人間の子どもみたいに、水槽内をキョロキョロと見回すその仕草と表情だ。砂の上にフワリと腹這いになって、顔の角度ごと右や左や上の方に目を向ける姿は、なんだか色んなことを考えていそうに見えた。


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2013年08月16日

ハイギョとウーパールーパー Lungfish and Axolotl

Protopterus amphibius
(上)最小種のアフリカハイギョ、プロトプテルス・アンフィビウス Protopterus amphibius
(下)「ウーパールーパー」こと、メキシコサラマンダー Ambystoma mexicanum


ハイギョの何が魅力かと言えば、それは魚類から両生類へという進化の痕跡を今日にあって目の当たりにできる点だ。
魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類。私たちはこのくっきりとした分類に慣れすぎて、これらが遥か昔に共通の祖先から生まれたという事実を忘れている。魚類でありながら両生類の性質を備えているハイギョのような存在は、全ての生き物たちが実は進化の道筋によってつながっていることを思い知らせてくれる。

ハイギョ(中でも小型種の、プロトプテルス・アンフィビウス)とウーパールーパーを並べてみると、そのことがよりよく分かる。前者は魚類、後者は両生類。そう言葉にすると両者の間には大きな断絶があるけれど、実際には彼らは親戚のようによく似ている。ハイギョは、進化の歴史においては他の魚たちよりもずっと長く両生類と道のりをともにしている。その歩みが、彼らの姿にはっきりと現れている。

ある生き物が受精卵から成長してゆく過程は、その種が辿ってきた進化の過程をなぞる、という仮説がある。「反復説」というらしい。
ウーパールーパーは、メキシコサラマンダーというサンショウウオが、「幼体の姿のままで」成熟したものだ。だから乱暴に反復説を当てはめれば、ウーパールーパーはサンショウウオが進化してきた過去のある地点の姿であるはず。それがハイギョに似ているという事実は、学術的な正当性は別として、とても心地好くストンと腑に落ちる。



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2013年08月09日

ハイギョ Lungfish

Protopterus aethiopicus
アフリカハイギョの一種、プロトプテルス・エチオピクス Protopterus aethiopicus

4億年ほど前、一部の魚たちが両生類へと進化し始めたらしい。恐竜たちの時代よりももっと遠い遥か昔のことだ。

「魚類の一部が両生類に進化した。」というのは、今現在の私たちから見た一つの結果であって、当時の魚たちに「いつかはカエルになるんだ」などという進化の意志があったわけでは当然ない。彼らはどこが自分たちの目的地であるかを知らずに進化の道を歩んだ。おそらく数かぎりない魚たちが進化の袋小路に迷い込んで死に絶えていったはずで、幸運な、あるいは強力な一握りの者だけが両生類へと姿を変えることに成功した。

ハイギョは、そうして魚が両生類へと進化してゆく、その途中の姿のままで4億年を生き延びてきた魚だ。彼らは分類上は間違いなく魚類なのだけれど、こと呼吸器に関して言えば既に両生類の特徴を備えている−すなわち、幼生期には体の外側に飛び出したエラを持ち、成長するに従ってエラよりも肺が発達してくる。
顔つきも、どちらかというと魚類より両生類に近い。

魚類と両生類の進化の道筋を系統樹に描いてみると、彼らハイギョの存在の特異さはあのシーラカンスに勝るとも劣らない。シーラカンスもハイギョと同じように魚類から両生類へと進化する途中で己の道を究めた魚だけれど、ハイギョの方がより両生類に近いところでそれを行っている。
シーラカンスが発見された1938年当時、学会のみならず世界中が騒然とした、らしい。ハイギョについてはオーストラリアに棲息している1種を除いてあまり発見時のエピソードは語られないけど、彼らだってもし見つかったのが最近だったなら、きっと学者たちの度肝を抜いたはずだ。

ハイギョの4億年に思いを馳せるなら、東京タワー水族館がいい。年季の入った大型淡水魚たちの中でも、まだら模様の大きなアフリカハイギョ(プロトプテルス・エチオピクス)は、どろりとした静かな迫力で異彩を放っている。これまでハイギョという魚に全く興味がなかったのに、彼の前に立った途端に目が釘付けになった。その15分ほどの間に彼はよく動き、水面から口を出して肺呼吸する様を見せてくれた。空気を吸い込んでゴクゴクと動く喉の皮膚は、ゴジラの敵役の怪獣の着ぐるみみたいだった。










 
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2013年08月02日

メバル属の幼魚 juveniles of the genus Sebastes

juveniles of the genus Sebastes

子どものころ、工作キットの懐中電灯のスイッチのパーツをなぜかとても気に入って、それだけを肌身離さず持ち歩いていたことがあった。それは透明で薄青色のプラスチックで、スライド式のスイッチとして指の引っかかりが良いように、横から見ると「凹」の字を左右に引き伸ばしたような形で表面に幾筋か溝が切ってあった。その軽くて薄っぺらな手触りや、それをミニカーのように窓枠とか湯槽の縁を進ませて遊んでいたことははっきりと記憶に残っている。幼少期のそういう「もの」にありがちな運命として、それはいつの間にかどこかへいってしまったけれど、何とも説明しようのない「好き」の気持ち、それを見たり手に触ったりしているときの深呼吸するような落ち着いた充足感は、決して今と切り離された過去のものではない。

同じころ、家の近くの駐車場に敷き詰められた砂利の中に、一目見て人工的に作られたと分かる1センチ足らずの三角おむすび型の石粒が混じっているのを見つけて、拾い集めていた。表面はすりガラスのようにさらさらとした手触りで、色は濃灰色。三角形の角の絶妙な丸みや、厚すぎず薄すぎず「これぞ!」と言うべきおむすびの厚みも含めて、すべてが人間の感じる「心地好さ」を的確に狙ったような造形だった。もちろん、当時はそんなことを考えるまでもなく、ただ「好き」と思って集めていた。これも残念なことに、今では一粒たりとも手元に残っていないし、そもそもどのような目的で作られていたものなのかも分からない。けれども、あのおむすび石からダイレクトに感じる心地好さは、忘れていない。

メバルやカサゴの仲間たち、とりわけ水槽で身近に飼えそうなサイズの子どもたちの姿を眺めていて思い出すのは、それらスイッチやおむすび石がもたらす快楽と、説明しようのない「好き」の気持ちだ。自然の造形は美しい、うっとりといつまでも眺めていられる魚はいくらでもいる。けれども、その中でもなぜかメバルの類、この仲間たちの姿からは、何か「あるべきものがあるべきところに収まった」というような種類の心地好さを感じる。これぞ完璧なる調和である、その中にずっと身を置いていたい、そういう欲求が、視線を彼らに釘付けにしてなかなか離そうとしない。


 
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