
大学4年生の頃、一度だけ「投網」に連れていってもらったことがある。今思えば貴重な体験なのだけれど、残念ながらほとんどのことは記憶に残っていない。魚好きの少年が大学生になって、行き先は隣県とは言え水槽の世話も親にまかせきりにして実家を離れ、新たな環境に身を置いて3年余り経った頃のことだ。魚に対するまっすぐな熱意はすっかり薄れて、大学生らしいとも言えるモヤモヤとした混沌に身も心も迷い込んでいる時期だった。
そんな中で今なお覚えているのは、その日は少し雲が多めだからと油断していると手ひどく日焼けしそうな初夏の空だったこと、投網は難しくて結局最後まで思うようには投げられなかったこと、そして「ハスが獲れたこと」だ。自分が投げた網であったかどうか、とにかく引き揚げた網の中に一際立派な銀色の魚体があった。大きく「への字」に裂けた口と太い顎のいかつさが、すらりとした体には多少アンバランスにも思える、雄のハスだった。熱が冷めていたとはいえ、図鑑でしか知らなかった工具のように噛み合わせの美しい口の構造に、これが!と感動した。
記憶の中のそのハスは顎から頬にかけてがうっすらと色づいた程度だったけれど、中にはオイカワを淡くしたような優美な婚姻色を呈する個体もあるらしい。振袖のように長く垂れた尻びれをはじめ、体型もよく似ている。だからその分、吻が尖って可愛らしいオイカワとの顔のギャップが際立って見える。ハスの風貌は明らかに魚食性の強い魚のそれだ。一度くわえた魚は逃がさないであろう、牙のような独特の形状をした太い顎は、節分の豆撒きで使う鬼の面を髣髴させる。オイカワを「ヤマベ」と呼ぶ地方ではハスを「オニヤマベ」と呼ぶそうだが、その名付けの感覚はすんなりと腑に落ちる。
投網で獲ったハスはその日の夜、他の魚たちと一緒に塩焼きになった。品のいい白身だけど、小骨が多くて少し食べにくいな、と思った。