2014年04月24日

タカノハダイ Cheilodactylus zonatus

Cheilodactylus zonatus
日本に生息するタカノハダイ属3種の幼魚
(上)タカノハダイ Cheilodactylus zonatus
(左)ユウダチタカノハ Cheilodactylus quadricornis
(右)ミギマキ Cheilodactylus zebra


品川には2つ水族館がある。1つは、駅前で目立っている「エプソン品川アクアスタジアム」。もう1つは、そこから少し離れた「大森海岸」というところにある「しながわ水族館」だ。

このしながわ水族館には数年前に一度行ったきりなのだけれど、いい水族館だと思った。派手さはないけれど、展示から生き物たちのリアルなあり方が伝わってくる。
メインは「東京湾に注ぐ川」をテーマにした一連の水槽群。上流から河口、そして海へと、下る川の流れととともにそこに棲む魚たちの姿を辿ることができる。東京湾の魚たちが特に印象深かった。何の変哲もないボラやメバルやハゼやカレイだけれど、かれらが港の岸壁や桟橋をイメージしたレイアウトの中を泳いでいる光景は、幼いころに大阪湾の灰色っぽい海で彼らに親しんだ身にはとても身近に感じられて嬉しいものだった。

確かその最後のほうに、岩組みと機械仕掛けの波で磯のようすを再現している水槽があって、そこにタカノハダイがいた。タカノハダイは岩のくぼみにぴったりと体を沿わせて、波が渦巻くたびに胸びれを突っ張らせてじりじりと後ずさりし、体を持っていかれまいとしていた。水槽の中で機械の作る波に抗っている姿は少し哀しいような気もしたけれど、本当の海でもきっとこうやって何かと闘うようにして必死に生きているんだ、昼も夜も、と考えてみると、人間だって同じだなと思った。波の正体が機械仕掛けだろうと大海原に吹く風であろうと、自分が向き合うのは目の前の波だ。波の正体を見透かす力は人それぞれでも、誰だって目の前の波には向き合わざるをえない。

そうやって胸びれで体を支えていた姿、何かに似ているなと思ったら珊瑚礁の熱帯魚のゴンベだった。ゴンベというのはその名から何となくイメージできる通り、なんだかどん臭くて滑稽で可愛らしい魚だ。調べてみると実際に近縁らしい。なんだ、○○ダイなんて格好つけてるけどゴンベの兄貴分か、と思うとより親しみが湧いた。


 
posted by uonofu at 22:21| Comment(3) | 魚の譜

2014年04月18日

ヤマメ Oncorhynchus masou masou

Oncorhynchus masou masou

ヤマメは、アマゴと亜種どうしの関係にある。
そこで「そもそも亜種とは…」というような話をしようと思ったのだけれど、改めてWikipediaを見てみると亜種うんぬん以前に「種」の定義からして一筋縄ではいかない、ということが分かったのでやめた。素人は素人らしく、意味の正しさはさて措いて感覚的なたとえ話をするならば、種どうしの関係は兄弟姉妹のようなもので、亜種はもっと近しく双子のようなものだ。

兄弟姉妹といえば、もっと興味をかきたてる話がある。

ヤマメには一生を河川で暮らすものと、サケのように川を下って海で育ち、また産卵のために川に戻ってくるものとがある。同じヤマメなのに、ふたつの全く異なる生活史があるのだ。かれらいっぴきいっぴきがどのようにして自らの生き方を選んでいるのかとても気になるところだけれど、どうも河川の流量や月の満ち欠けが関係しているらしい。また、北海道では雌の大半と一部の雄が海を選ぶという(田口哲著『北の魚類写真館』北海道新聞社、1999年、より。美しい写真と、フィールドワークの真摯さが伺える解説文が素晴らしい本。図書館で数回借りた後、どうしてもお気に入りなので買ったほど)。

生き方の違いは姿にも表れる。川にとどまったものは絵のような丸みのある顔と独特の模様を生涯にわたってほぼ保つけれど、海へ下ったものは豊富な栄養を取り込んで大型化し、まさしくサケのように鼻先が尖って「サクラマス」と呼ばれるようになる。色もサケのようで、海で過ごしている間はギラリとした銀色。川へ戻ると美しい桜色の斑が浮かんでくる。

面白いのは、大きさも姿かたちも別種としか思えないほどに違うヤマメとサクラマスが、やっぱりかれらには同種であると分かるらしく、行動を共にするということだ。はるばる長旅を終えて生まれ故郷に帰ってきたサクラマスが、半分以下の大きさのヤマメに寄り添っている姿には、何か心を揺さぶるものがある。

『北の魚類写真館』にもそのような写真が載っているのだけれど、「体の大きさは違ってもサクラマスとヤマメは同種であり同じ川であれば親兄弟とか親戚であるかもしれない」というキャプションにハッとした。もし本当にそうなら、なんという劇的な再会だろうかと。けれども、ハッとした本当の理由はもう少し別のところにあるのだと少し経って気づいた。そうやって魚を擬人化して人間の感情を当てはめてみて感動したわけではなく、そのような見方が自然に出てくる著者のフィールドワーカーとしての細やかさ、臆面もなく気障にいえば「愛のある視線」に、畏敬の気持ちが湧いたのだった。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(1) | 魚の譜

2014年04月11日

アマゴ Oncorhynchus masou ishikawae

Oncorhynchus masou ishikawae

「アマゴ」の名を目にすると、見栄っ張りで自分をもの知りに見せようとばかりしていた小学生の頃のことを思い出す。

5年生の林間学校のプログラムに「魚のつかみどり」があった。そのことは事前に配られるしおりで知っていたのだけれど、そこからさらにその魚がアマゴである、ということまでどうしてだったか私は予め知っていた。情報源は母だったような気がする。クラスの懇談会ででも聞いてきたのかもしれない。毎週のように父と海釣りに行っていたけれど、渓流の魚には馴染みがなかったから楽しみだった。

つかみどりは、小学校の校庭の足洗い場みたいなコンクリートの囲いの中に浅く水が張ってあって、そこを窮屈に泳ぐ魚を追いかけるというものだった。囲いは狭いし水は足首の少し上ぐらいまでしかないし、子どもたちがザブザブ歩き回ってぬるく濁った水の中では当然魚も弱っているしで、物足りないほど呆気なく捕まえることができた。

私は手の中に魚を抑え込んで、すぐそばに立っていた係りのおばさんに「これ、アマゴ?」と訊いた。まあ分かってるけどね、という雰囲気を醸すためにわざと馴れ馴れしい言葉遣いにするという、今思い出しても恥ずかしくなる訊き方だった。てっきり「よく知ってるねぇ!」的な反応が返ってくると期待していたのだけれど、おばさんはにっこり頷いただけだった。それに満足できなかった私は、少し小さな声になってさらに重ねて「アマゴ?」と訊いたけれど、おばさんは同じ笑顔でまた、ただ頷いた。自分の浅はかな見栄が見破られたようで恥ずかしい思いと、もし見破られていないのならこの小芝居を完結させなければという思いが心の中でもつれて、私はうんうん、という感じで軽く頷いておばさんの元を離れた。

(林間で憶えているのはこの出来事と、その後の飯ごう炊さんのカレーを食べ過ぎたことだ。あまりにもおなかがいっぱいで「これはどうなってしまうんだろう」と本気で不安になりながら、キャンプ地のはずれのフェンス際で中腰のまま静止していた。)

せっかくそうしてアマゴと出会っておきながら見栄を張ることしか考えていなかったせいで、この類の魚にはその後も長らく馴染みがないままだった。同じくポピュラーな渓流魚であるヤマメとの見分け方も、今回絵を描こうと調べてみて初めて知った。体側に華やかな赤い斑点のあるのがアマゴ、ないのがヤマメらしい。言われてみれば、記憶の中で手のひらに載っているアマゴには紅色が散っていたような気がする。

今さらながら、かれらの魅力に少しずつ触れつつある。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(0) | 魚の譜

2014年04月04日

キンギョ Carassius auratus auratus

Carassius auratus auratus
(左上)和金 (右上)コメット (左下)朱文金 (右下)ブリストル朱文金

以前住んでいたマンションのすぐ近くに「氷川神社」という社があった。平日の午後はずっと近所を駆け回る子どもたちの声が響いているというようなエリアだったから、そこでのお祭りは規模こそ小さいけれど嬉しそうな子どもたちの顔で賑わって、郷愁に胸が締めつけられるような実にいい風景なのだった。

日が暮れた濃紺の空の下で数年ぶりに金魚すくいをしたのが、そのお祭りの最後の思い出だ。桶を覗き込むと、しっぽの先まで入れても3cm程度の可憐な金魚たちがひらひらと泳いでいて、朱い白熱灯の下でそれはもう夢のような光景だった。赤一色にフナ尾(上下ふたまたに分かれている、最も普通の尾びれの形)のもの、紅白の更紗に桜茶の花びらのような繊細な三つ尾(上から見ると三つまたに分かれている)のもの、絹の薄衣を羽織ったような淡い肌色に優美な吹き流し尾(上下ふたまたで先が長く伸びている)のもの。

連れて帰ってしまえばこれから長い付き合いになるという重みは理解しつつ、あまりの美しさに目が眩んで「よし、金魚を飼おう!」と思い切り、300円払ってポイを受け取った。どの色が、どの柄が、どの形がいいだろうと目移りしながら8尾をすくって持ち帰った。

金魚すくいの金魚、特に小さなものをきちんと生かすのは意外に難しい。それでも、長く魚を飼ってきた自分なら大丈夫だという妙な自信があった。初心者じゃないんだから、いくら小さいとは言えこうやって普通に泳いでいる金魚を死なすことなどあるものかと。けれども、その自信には何の根拠もなかったのだということはすぐに思い知らされた。か細い金魚たちは時間が経つにつれて尾を振るのも大儀そうに弱ってゆき、慌ててあれこれ手を尽くしたけれど数日のうちに結局みな死なせてしまった。

これは本当に苦い思い出なのだけれど、あの祭りの風景、テントの灯りに照らされて桶を泳ぎ回る色とりどりの金魚、楽しそうな親子連れがひしめく参道のさんざめき、三々五々引き揚げる人々のゆったりとした足音、シンと静かなリビングで金魚を覗き込む不安な気持ち、そういったものの全てが夢か幻のようで、あまりにも美しく脳裡に焼き付いている。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(2) | 魚の譜