2014年12月26日

ゼブラダニオ Danio rerio

Danio rerio
左下の個体は各ひれが伸長する改良品種。長い布をまとって泳いでいるようでとても美しい

きらびやかな小型熱帯魚の世界で双璧をなすのが、中南米・アフリカのカラシン科とアジアのコイ科。前者の代表魚をかの有名なネオンテトラだとするならば、後者のそれはこのゼブラダニオだ。かれらはどんな飼育書にも入門魚として紹介されているし、もし取り扱っていないショップがあるならば、取り扱っていないことそれ自体が店主のこだわりの一端を示しているとさえ言っていい。それくらいありふれた存在なのだ。

安価で入手しやすく、飼育も(ゼブラダニオに至っては繁殖も)容易。そんな熱帯魚の宿命として、改めてその美しさを真摯に捉えようとする言葉をなかなか見かけない。美しいのは誰もが知っている。けれどもそれを説明する言葉はどうも紋切り型で心に留まらず、使い古されたコピペのようにさらさらと流れ去ってしまう。
その点、数々の熱帯魚に愛情溢れる珠玉のコピーを付している我がバイブル『熱帯魚図鑑』(松坂実 他 著、マリン企画、1986年)はさすがの出色ぶりだ。

“背側はオリーブ、腹側は金色がかった白色で、体側には美しく濃い青地に金色がかった4本の縦じまが通っている。模様は尾ビレ、尻ビレまで続いている。水面近くで群泳するさまは、小型アクアリウム内のすばらしい装飾である。”(抜粋)

たったこれだけの写実的な短文から匂い立つ、繊細で優美な躍動感。この表現の豊かさは、ときに絵や写真をも上回っているのではないかと思う。

文字通り擦り切れるまでこの『熱帯魚図鑑』を眺めていた二十数年前、我が家の玄関の60センチ水槽にはこのゼブラダニオが泳いでいた。やや胴長で頭の丸い体型、しっとりとした厚みを感じさせるなめらかな尾びれ、きりりと引き締まったストライプ模様。その姿でよどみなくキラキラと泳ぎ回るさまを、三和土にしゃがんでひたすら飽きもせず見つめていた。今でも鮮明に思い出せるその光景、何かを連想させると思ったら、それは見渡す限りに銀河のきらめきがひしめくハッブル望遠鏡の宇宙写真であった。


 
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2014年12月19日

オールドファッションなテトラたち Old-fashioned Tetras

old-fashioned tetras
(左上) ヘッドアンドテールライトテトラ:複雑な色彩が美しいのだけれど、一見地味
(左中) モンクホーシャ:水草齧りで有名、老成すると意外に大きい
(左下) サーペテトラ:気性が荒く、他魚のひれを齧る
(右上) ブラックテトラ:老成すると意外に大きく、色彩もぼやける
(右中) グローライトテトラ:水草水槽との相性はいいが、地味なため主役にされにくい
(右下) レモンテトラ:水草齧りで有名、ショップでは地味で見過ごされがち


人に消費される他のすべてのものと同じように、熱帯魚の世界にも流行り廃りがある。

異論は数多あるだろうけれど、「ネイチャーアクアリウム」のコンセプトがアクアリウムの最高峰の一つに君臨する*以上、今の流行は見た目・性質ともに水草レイアウト水槽と相性のよい小型美魚たちだ。鮮やかなグリーンをバックに映え、同居魚たちに危害を加えず、水草を齧ったり引き抜いたりすることもなく、あわよくばコケやスネールのような「不純物」を積極的に食べてくれる―それらが今、「愛され魚」になるための条件だ。ここ十年ほどの間に現地採集や品種改良によってもたらされた数々の「新商品」の中でも、ネイチャーアクアリウムにお誂え向きのこれら小型美魚たちは、高い商品価値とともに市場に生き残っている。
*「ネイチャーアクアリウム」のコンセプトについてはこちらに。

その一方で、網羅的に多くの魚種を扱っている熱帯魚店へ行けば、二十年以上前から決して変わることのない顔ぶれも目にすることができる。古典的、とも言えるそれらの魚たちは、流行り廃りに縁が無いどころか、一部は「流行らない」要素を備えてすらいる。気性が荒く同居魚に危害を加える。水草の新芽をせっせと齧ってしまう。老成すると意外に大きくなる。ただただ地味(別の言い方をすれば水草をバックに渋く映えるのだけれど、見慣れすぎた姿のため美しさに気付けない)。

流通している魚種が今よりもずっと少なかった時代と違って、今はわざわざそれらの「欠点」を抱えた魚に手を出さずとも、他にいくらでも魅力的な魚たちを手に入れることができる。それでもかれらが熱帯魚店から姿を消さないのは、養殖技術と流通ルートが確立されていて機械的に供給されるという側面もあるだろうけど、何よりかれらを「かわいい!」とか「きれい!」とか思って買うアクアリストがいるからだ。

美しい水景を創るため、相応しいものだけをその住人として不純物を取り除く―アクアリウムにおいてそれは何ら間違ったことではないと思うし、自分自身もそうやって水槽を維持している。けれどもそこに何やら優生思想めいた不穏な気配を感じてしまいもする中で、一癖抱えたこれらのオールドファッションな熱帯魚たちとの一期一会から長い付き合いを始めるアクアリストの姿を思うと、熱帯魚を飼い始めた頃の自分自身を思い出して、心が洗われるような気がする。


 
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2014年12月12日

堤防周りのフグたち genus Takifugu

genus_Takifugu
(左上)クサフグ:オリーブグリーン〜濃灰色の背に白い斑点
(右上)ショウサイフグ:白地に焦茶〜濃灰色の斑点
(左中)アカメフグ:灰紫〜赤銅色の地に疎らな斑点。目の赤さが目立つ
(右下)ヒガンフグ:灰緑〜濃灰色の背に黒い斑点
(左下)コモンフグ:焦茶〜濃灰色の地に白い斑点。ショウサイフグとは目の下の模様で見分けやすい


堤防の釣りにおいて、フグの仲間ほど不当な扱いを受けている魚はいない。

誰かの竿が大きくしなって、高揚感に満ちた活き活きと慌ただしいリールの音が辺りに響く。白い腹を見せてスポンと上がってきたのがフグだと、ひそかに固唾を飲んで横目で見ていた周りの釣り人たちの気配がふっ、と緩む。なあんだフグか―魚に対するネグレクトや釣った当人への軽い揶揄、狙いの魚で先を越されなかったという安心感、あるいは純粋な失望感。いずれにせよ、いい雰囲気のものじゃない。釣った本人も勢い込んでリールを巻いたのが恥ずかしくなったりして、舌打ちとともにフグをポイと海へ返す。フグの方は怒って膨らんでいるものだから海へ放られると丸い腹を上にしてしばらくプカプカ、そして思い直したように「プ」と水を吐くとずんぐりした尾を振ってブイブイと深みへ帰ってゆく。

きっと、食べられないからだろう。フグをはじめ、釣り針からうまくエサだけを掠め取る「エサ取り」の魚たちは総じて釣り人に嫌われるものだけど、たとえば最高級の白身と肝を持つカワハギなら、エサ取りであるがゆえの釣りの難しさも彼らの価値をさらに引き上げる方に作用している。けれどもフグは食べられない。食べられない魚がエサだけ掠め取るのだから、釣り人に好かれるわけがない。その風潮が、私自身にもすっかり沁みついている。勢い込んでリールを巻いた結果フグを釣り上げてバツが悪そうにしているさっきの釣り人は、私自身の姿だ。何か釣れましたか?と訊かれてフグと答えるときには必ず「いやぁダメですね、フグぐらいです」と言う。「フグがね、釣れましたよ!」と得意げには言わない。

だからいくらフグを釣っても、その見分けはいっこうに覚えなかった。クロダイとキチヌは見分けるし、カサゴとソイも別物と認識するけれど、フグは常に「フグ」でしかない。けれども、食べる釣りよりも見たり撮ったりする釣りにもっぱら傾倒するようになって、フグは「無価値な外道」ではなくなっていった。そして先日三戸浜の堤防で電気ウキを点けてすぐに釣れた大きなフグは、いつもの斑点柄のとは一見して違っていた。アカメフグ。夕陽の朱さが藍色の海面にとろりと溶けてすっかり薄暗くなった堤防の上で、フグの目だけが光を集めて燃えるように輝いていた。

改めて写真を見返してみると、ほとんどの釣行で一尾はフグを釣っているし、その種類も様々だ。面白い。見た目もユーモラスだし、どこの海にでもいるし、エサ取りは上手だけれどそれなりにミスして針にも掛かってくれる。こんなに楽しい仲間は逆にそういるもんじゃない。これからはフグを堂々と喜ぶことにしよう。きちんと○○フグ、と名前で呼んで、あちこちの海からコレクションしていくことにしよう。


 
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2014年12月05日

サヨリ Hyporhamphus sajori

Hyporhamphus sajori_141205

生気の抜けた虚ろな目のことを「死んだ魚のような」と表現するように、魚の生き死は目にとてもよく表れる。
釣り上げられたばかりの魚の目には溢れんばかりの表情がある。彼らが何を思っているのか分かるわけは勿論ないのだけれど、あるものは威嚇するかのように周囲を睥睨し、あるものは無念を滲ませて視線を落とし、またあるものは虚空を見つめて息を整えながら(整うことはないのだけど)何が起こったのかを理解しようとしているように見える。それらはすべて目の力だ。活〆された魚の目は見る見る表情を失ってただの白黒の◎になり、それとともに魚は感情の片鱗すらも感じさせない「オブジェクト」になる。

もう一点、死んでガラリと変わるのは体表の質感だ。この変化の程度は魚の種類による。
先週末、千葉は市原の海釣り公園でサヨリを釣った。生まれて初めて釣ったサヨリは30cmの良型で、たっぷりと厚みがあるのに柔らかく透き通った筋肉は早くもその時点で刺身を思わせ、珍しく釣った瞬間から食べるのが楽しみだった。入れ食いのカタクチイワシに埋もれてクーラーボックスの中で苦しんで死んでいくよりも、〆ておいた方が鮮度が保たれるのではないか。同行の江坂さんとそう頷き合うと、心を鬼にしてえらを引き抜いた。血液の送り先を失った心臓が慌てたように激しく脈打ち、それが止むと電池が切れるようにサヨリの目から表情が消え、細長い体躯が手の中でぐにゃりと力無くしなった。数十分後再びクーラーボックスを覗くと、ついさっき寒天菓子のように透き通っていたはずのサヨリは、ぎらりと銀色に光を照り返す青魚になっていた。それはもうすっかり、スーパーの鮮魚コーナーでよく見る食材としての魚の姿だった。

家に帰ってさっそく三枚に卸すと、背骨に沿って鮮やかな青緑色の線が走っているのが目に入った。これは何のためにあるもので、なぜこんなに美しい色をしているのだろう。釣り上げられたばかりのサヨリに満ちているあのみずみずしい透明感は、この青緑色の光がさまざまに反射しながら身を透り抜けて、体表に現れているからなのだと知った。


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