2015年02月27日

サンタマリア(ペンギンテトラ) Thayeria boehlkei

Thayeria boehlkei

1986年の名著『熱帯魚図鑑』*は、この魚を「サンタマリア」の名で紹介し、ペンギンテトラを別名扱いとしている。確かに20年前にはショップでも両方の呼称が半々ぐらいの割合で見られたような記憶があるけれど、その後次第にペンギンテトラが主流になっていった。もしいまだにサンタマリアの通り名を使っているショップがあるなら、そこのオーナーはなかなかの懐古的な感覚の持ち主なんじゃないかと思う。

所以のよく分からないサンタマリアと違って、ペンギンテトラの由来ははっきりしている。頭を上げて尾で立っているような泳ぎ姿勢と、少し滲んだような漆黒のライン。この魚のチャームポイントはペンギンを思わせる。
けれども徐々にペンギンの名を採用するショップが増えていくのを目の当たりにしていた当時、何だかつまらないなと思っていた。見た目を説明するような名前よりも、何だかよく分からないけれどサンタマリア、そうと決めたらこの語感はこの魚のもの、そんな気ままな名付けの方が趣味の世界には相応しい。ペンギンテトラというのにはどうも商業的な媚びの匂いがある。子供心に感じていたつまらなさを今説明するならばそんなところだ。

『熱帯魚図鑑』が書かれた30年前の時点で既に「最近ではあまり見られなくなった」と言われている。スター選手ぞろいの○○テトラの中では地味な見た目であること、思いがけず大きくなること(5センチは超える)、気性が荒いことで敬遠されるのかもしれない。でも120センチ幅以上の大水槽にかれらを群れで泳がせれば間違いなく壮観だ。水草をたっぷり植えるのも、アマゾンの水景を思わせる茶色いレイアウトにするのもいい。頭の角度を揃えてキビキビと泳ぐ群れの姿を思い浮かべると、ほーっと溜め息を吐きたくなる。そしてそんな姿に似つかわしいのはやっぱり、「ペンギンテトラ」ではなくて「サンタマリア」なのだ。
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*松坂実 他 著、マリン企画


 
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2015年02月20日

アヤアナハゼ Pseudoblennius marmoratus

Pseudoblennius marmoratus

目の前の青い海のどこを見ても小魚の影で湧き返っているような真鶴の堤防で、足下に揺れているメカブの陰にそっと仕掛けを落とすと、すすり込むようなアタリとともにこの魚が釣れてきた。

繊細でありながらしっかりと主張する鮮やかな黄金色。かれがその身を潜めていたメカブの煮汁で何度も何度も草木染めをしたら、こういう色になるんじゃないかと思う。美しい背中のモザイク模様をなす赤紫色と黄土色は、海藻の色をそのまま身に纏ったかのようだ。
形もいい。わずかに上唇の突き出た大きな口に、肉食魚らしく洋梨型に尖った黒目、条が鉤爪のように飛び出した胸びれ。体の前半分はカサゴによく似ていかつい雰囲気だけれど、後ろ半分は打って変わって滑らかで、無闇な棘がなく手触りの良い背びれ尻びれはアイナメを思わせる。岩礁帯の魚の魅力が、この20センチ足らずの小さな体躯に洗いざらい詰まっている。

この美しさをしっかりと写真に残しておきたい一方で、かれを海に還すまでの限られた時間、レンズ越しではなくもっと直接目に焼き付けておきたい。その葛藤に苛まれて、カメラを構えたり下ろしたり、撮影用のケースを目の高さまで持ち上げたり自分が逆に這いつくばったり。そんなことを繰り返しながら、ケースの中で撮影者に劣らず落ち着きなく身を翻すかれに、100回以上シャッターを切った。


 
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2015年02月13日

ナマズ Silurus asotus

Silurus_asotus

ナマズは日本の妖怪のイメージそのものだ。ぬらりと生々しくて薄気味悪いけど、どこかユーモラスで愛嬌がある。そして何やら人智を超えた不思議な力を持っている。
実際、江戸時代の人々が絵に描いたナマズは大抵クジラのように大きかったり、着物を身につけて喋っていたりするので、それはもう妖怪と呼ばれているものたちと何ら変わらない。

民俗学がとうの昔に学術的に明らかにしていることだと思うけど、日本の妖怪たちには人々の日常生活の似姿のようなところがある。笑ったり泣いたり酔ってはしゃいだり隣人に眉をひそめたり、突き詰めれば意味なんて無いし取るに足りないことばかりだけれど、一人ひとりの人間にとってはそれこそが人生そのものである日常生活と同じものが、妖怪たちにも当然あるものとして描かれている。自分たち人間の世界から膜一枚隔てたところに、姿は違えど同じように日々を生きている存在があるということへの繊細で愛情に満ちた想像力。それがあるからこそ、妖怪は恐怖の対象であるのと同じかそれ以上に、愛着と畏敬の対象だったのだと思う。

身近な川や水路にひそんでいて、夜になるとぬるぬると音もなく泳ぎ回り、魚やカエルを丸呑みにする大きな生き物。そう考えれば、現代人からすれば「魚の一種」にすぎないナマズも昔の人にとっては十分に「膜の向こうの存在」であって、恐怖と愛着と畏敬の対象だったんじゃないかと想像がつく。
お正月に妻の実家脇の水路を覗き込んでいると、大きな頭をした50センチほどのナマズが突如水草の茂みから現れて、小鮒の群れを散らして悠々と泳ぎ去った。コンクリートとアスファルトに囲まれて相当に人間の世界に圧されてはいたけれど、ふと「膜の向こう側」を感じさせるような異形の存在の、堂々たる泳ぎ姿だった。


 
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2015年02月06日

マイワシ Sardinops melanostictus

Sardinops_melanostictus_150206

節分の日の会社帰り、遅い時間に妻とスーパーに立ち寄ると、魚のコーナーに大きなマイワシの丸干しのパックが5つ残っていた。マイワシの丸干しを見ると、大学の隣りにあった吉田神社の節分祭を思い出す。参道の入り口の角の一等地はイワシの屋台で、脂の焼ける煙がもうもうと立ち上って鳥居が霞んで見えるほどだった。両親はこの節分祭をすっかり気に入って、イワシや打ち出の小槌の根付を買うのを楽しみにしていた。実際、発泡スチロールの小さなトロ箱にまるまると太ったイワシが10尾ほども入って500円なのだからお買い得なのは間違いなかった。そこで母に買ってもらったイワシは、一人暮らしのワンルームマンションで焼くと魚の匂いが充満して大変なことになるので梅干し煮にした。美味しかった。大学に入りたての頃は、母が息子の一人暮らしを心配して足を運んでくれるのを「もう一人でやっていける、大丈夫なのに」と少し疎ましく感じることもあった。けれども吉田神社でイワシを買っていた3回生の頃にはもう、そうして両親や姉が大阪から来てくれて一緒に京都で時間を過ごすことを大切に、楽しみに思っていた。

閉店前のライフでそんなことを思い出しながらイワシだぁなどと声を上げていると、妻が帰って焼こうよと言ってくれたので晩ごはんは急遽一品追加になった。香ばしいたっぷりの脂と、小骨が髪の毛のように口の中をちくちく刺す感触を楽しみながら2尾たいらげた。


 
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