2015年09月25日

タケノコメバル Sebastes oblongus

Sebastes oblongus

タケノコメバルに憧れ続けた1年だった、と言っても過言ではない。

子どものころ、釣りを教えてくれた父の会社の村田さんが、父の釣り上げたカサゴを見て「ガシラですやんか!」と喜色を浮かべてから、僕は根魚と言われる一群の魚たちを好きになった。ゴツゴツした頭やとげとげのひれ、大きな目と口、そして釣り上げられたときの威嚇の姿の華々しさに夢中になった。

中でもいわゆるメバルを筆頭とするメバル属(Sebastes属)の面々は、似た体形に色柄のバリエーションが多く、蒐集欲をかきたてた。繰り返し図鑑を眺めていると、形が似ていても単なる色違いではなく、種ごとに固有の顔つきや体つきがあるのだと分かってくる。釣り場で新たにメバル属の魚と出会うたびに、そうした図鑑の感覚と目の前の現物とが二枚貝のようにぴったりと符合したり、あるいは自分の感覚のほうが微妙に修正されて、脱皮したヤドカリのようにかたちを変えて居心地よく収まるのが快感だった。

そしてこのタケノコメバルは、防波堤釣りで出会える主だったメバル属のうち、まだ見ぬ最後の一種だった。
図鑑やネットの情報では、日本各地の沿岸に広く分布するように書いてあるけれど、実績をよく目にするのは愛知・静岡の東海、岡山・広島の瀬戸内、宮城、石川あたりで、僕がいつも釣りをしている関東近郊にはまるで気配がなかった。だから、ほぼ20年ぶりに本格的に釣りを再開した昨年の秋以降、旅行や帰省で関東を離れて釣りをするときには、「タケノコメバルがいそうな海」を最優先に釣り場を決めていた。けれども、出会うことはできないままだった。

シルバーウィークは縁に恵まれて愛媛の宇和島から香川の坂出にかけてを旅行した。タケノコメバルにはやはり出会えず、この旅行での最後の釣り場に選んだのが、坂出駅からタクシーで15分ほど走って小さな山を越えたところの静かな漁港だった。
足下に群れている5センチほどのメバルたちの横をかすめるようにして仕掛けを沈めると、岸壁にびっしりと着いた牡蠣殻の隙間からまだら模様の魚が目にもとまらぬ速さでエサに飛びつき、くわえきらずにまた引っ込んだ。メバルたちと同じ、ほんの5センチほどの幼魚だったけれど、まぎれもなくタケノコメバルだった。一気に全身に血が巡り、海へ落ちんばかりに身を乗り出してまた仕掛けを沈めた。何度かに一度、タケノコメバルが飛び出してくるのだけれど、警戒心が強くて食うに至らない。

釣れるかどうか分からないそのやり取りに時間を奪われるのも惜しく、別のやり方でもう少し成長したタケノコメバルを狙うことにした。この港には、確実にタケノコメバルがいる。そう信じて釣りをできる幸せに高揚しながら、港じゅうを探り歩いた。
けれども釣れないままじりじりと時間が過ぎて、次第に日が傾き始めた。あがくように、やっぱり最初に幼魚を見た場所へ戻ったけれど、潮が満ちて海の様子はすっかり様変わりし、幼魚はもはや見当たらない。遠目にあまり根魚の気配はないかなと思った岩場へも、後悔のないよう足を運んだけれど、思わしくなかった。

帰りの時間が30分後に迫って半ば諦めかけた頃、タケノコメバルは突然釣れた。それまで竿を震わせていたベラやタイの子たちとは明らかに違う、思い切りよくブルブルとしたアタリで、慌ててリールを巻きながら微かな予感があった。海面からスポンと、べっ甲色の魚体が揚がった。傾いた陽ざしに黄金色に照らされて、あれだけ恋い焦がれた魚体が手の中にある。夢が叶ったことに興奮すると同時に、残り僅かな滞在時間、この姿を目に焼き付けることに使うのか、写真に残すことに使うのかという葛藤が始まった。

メバル属にあっては珍しくシャープで細長く、ハタ科のようにも見える顔つきは図鑑や写真で見ていた通りだったけれど、撮影用のケースの中できょろきょろと辺りを見回す目の動きや表情は、やっぱりメバル属のそれだった。立ったり這いつくばったり、あらゆる角度から眺めて、200枚近くの写真を撮った。最後、名残を惜しみつつ手から直接海面に放すと、ふわりと手のひらを離れて一瞬漂ったあと、身を翻して深みへ帰っていった。


 
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2015年09月18日

オウゴンムラソイ Sebastes nudus

Sebastes nudus

旅先で空き時間に釣りをするとき、最大の難関はエサの調達だ。ルアーの使い手ならばそこで悩む必要はないのだけれど、残念ながら自分が操るルアーのことはちっとも信じられないので、気持ちよく釣りをするためには何かエサになるものを手に入れなければならない。

11時を回った夜更けの函館でエサを調達するには、コンビニぐらいしか手段がない。イカの塩辛があれば最高なのだけれど、駆け込んだローソンの棚には、残念、値札が残るのみだった。深夜の晩酌のお供に、誰かが買っていってしまったらしい。仕方がないのでチクワを買う。細切りにして、何ならコンビニ袋を裂いたものをちょっと結びつけて…などと考えるが、それなら最初からソフトルアーにすればいいじゃないか。

そんな迷いは、次に立ち寄ったセイコーマートで発見したイカの塩辛によって解消された。小躍りしつつ、小走りで住吉漁港へ向かう。平日の深夜、当然ながら人気はない。懐中電灯で海面を照らすと、何やらはっきりとは見えないけれど銀色の平たい魚が岸壁沿いを泳いでいる。はやる気持ちを抑えつつジグヘッドに塩辛を刺して沈めると、期待に反してまったくの無反応。突っつきもしない。そして底の様子は、どうも根魚たちがあまり好まない砂底らしい。函館の南東に美しく伸びる砂浜の端に位置する漁港だから、それも当然のことだ。迷った挙句、春にアイナメを釣った函館港側へ移動することにする。

移動と簡単に言っても、函館を構成する陸繋砂州を北東側へ横断するのだからそれなりの距離だ。左前方に見えていた箱館山の山頂がいつの間にか背後にまわる約2.5キロ。翌朝も早いのだからあまり夜更かしするわけにもいかない。人気のすっかり絶えたガランと広い道を、息を切らせながら走って移動した。運動は苦手なのに、釣りとなると深夜のジョギングもまるで苦にならない。

3月末以来、5カ月ぶりの函館港は、やっぱり魚たちが群がるようにして迎えてくれた。アイナメのポイントが近づくと、それまで反応なく底まで沈んでいたイカの塩辛が、海面から2メートル足らずのところでガツンとひったくられた。それからはクロソイが入れ食い。真っ暗な海の中で岸壁から少し距離を保って、やや頭を上に向けてホバリングしながら大きな目でぎょろりとエサまでの距離を測っている姿が目に浮かぶようだった。海面を照らすと、赤い光がUFOのように滑らかに泳いでは止まり、を繰り返している。小さなイカがわんわんと唸りを上げる蚊柱のように飛び交っているのだ。

クロソイに混じって、幸運にもこのオウゴンムラソイが一尾だけ釣れた。絶対的な個体数にも差がありそうだけど、それよりオウゴンムラソイはクロソイのように群れてホバリングするということはしなさそうだから、クロソイの活性がこの夜ほど高いとなかなかかれらにまではエサが届かないはず。そんな中で初めて出会えたSebastes属の新顔が嬉しくて仕方なく、引き揚げる直前までバケツに泳がせてたくさん写真を撮った。その名の通りの黄金色の鱗が、手の中で懐中電灯に照らされて夢のように美しい。


 
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2015年09月11日

キチヌ Acanthopagrus latus

Acanthopagrus_latus

キチヌは「黄チヌ」で、つまり一部のひれが黄色いチヌ(クロダイ)という名前なのだけれど、クロダイのひれを黄色く塗っただけでは決してキチヌにならない。
ギラリとした金属光沢と透明感とを併せ持った大きな鱗。モヒカン刈りのように高々と主張する背びれ。それらがこのキチヌという魚の、クロダイには無い「らしさ」だ。

大阪は忠岡町の小さなヨットハーバーの突堤で、初めてキチヌに出会った。そしてそれは、わずか数時間前に同じ場所でクロダイとの初対面を果たした後のことだったから、かれら兄弟の違いはとてもよく印象に残っている。小さめの鱗が丁寧に並び、お腹の白さも背の黒さも不透明でマットな雰囲気のクロダイは、思慮深くて内省的で、読書が大好きな兄。大きな鱗と派手な背びれのキチヌは、明るくて活発でスポーツ好きの弟。

大体の形はよく似ていて、色や模様が違う、という分類上の兄弟姉妹は魚の世界にたくさんいるけれど、実際に対面してみるとそういった特徴以上に、そこから生まれる「印象」の違いが心に刻まれる。それこそが魅力の源泉であるのは、人間も魚も同じことだ。


 
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2015年09月04日

カタクチイワシ Engraulis japonicus

Engraulis japonicus 150904

この、ガラス細工のように繊細で壊れやすく、絹織物のようにしっとりと滑らかな小魚によって、無数の他の命が生かされている。夜の防波堤では、青い背中をびっしりと密集させて泳ぐかれらにタチウオやスズキが襲い掛かるのを何度も見たし、釣り上げた魚の口や胃袋から、半分消化されたかれらが出てくるのは決して珍しいことではない。

われわれ人間だってそうだ。
やわらかい釜揚げしらすに大根おろしを添えて、醤油をひとまわし。それを真っ白なごはんと一緒に頬張ることができるのは、かれらの個体数と味のよさのおかげだし、港にサビキ仕掛けを垂らせば、たとえ他の魚たちの食いが渋い日でも大きな口を開けて疑似餌に食いついてきてくれる。カタクチイワシが入れ食いになると、たいてい一度に5尾も6尾も連なって上がってくるから、正直なところ次第に飽きて面倒くさくなる。繊細なあごができるだけ傷まないようにと丁寧に針を外していたのが、少々手荒にブチリとやるようになるし、海面から上げたところで針が外れて逃げてしまっても惜しいとも思わなくなって、頭の片隅では「これ全部持って帰っても料理が面倒だしな…」などと考えている。実際カタクチイワシ大漁の日は台所に新聞紙を広げて、ふにゃふにゃつるつるのかれらと背を丸めて格闘することになるのだけれど、それを乗り越えた後の見返りはその手間と時間に見合って余りあるものだ。刺身でも、素揚げでも、梅煮でも、どうやってもおいしい。料理にはあんなに手間がかかったのに食べるのは一瞬で終わってしまって、もっと一生懸命釣っておけばよかったと後悔することになる。

カタクチイワシはたいていの人が知っている身近な魚だけれど、生きているかれらを手にしたことがある人となるとぐっと少なくなるかもしれない。かれらの繊細な身の震えは、なぜかサバやアジの逞しい筋肉の躍動よりもずっとずっと「命」を感じさせる。それはひょっとすると、このか弱い魚の向こう側に、この魚に支えられている無数の命を知らず知らずのうちに想像するからなのかもしれない。


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