2016年01月29日

アイスポットシクリッド/ピーコックバス Cichla orinocencis

Cichla_ocellaris
※公開時、タイトルにocellaris種と記載していましたが、twitterであいすぽったーさんにご指摘いただき修正しました。

Cichla属にはこのorinocencisをはじめとするいくつかの種があって、それらをまとめて観賞魚の世界では「アイスポットシクリッド」と呼び、釣りの世界では「ピーコックバス」と呼んでいる。いずれも、尾びれの付け根にある目玉模様にちなんだ呼び名ということらしい(eye-spot=目玉模様、peacock=クジャクの羽模様)。現地では「ツクナレ」、これは意味は分からないけれど、観賞魚派・釣り派問わず口に出して言ってみたくなる心地好い語感であるのは間違いない。

その呼び名から分かる通り、アクアリストは熱帯魚界の一大勢力であるシクリッドの一つとして、分類学に基づいてこの魚を位置づけている。他方釣り人はいわゆるブラックバスシーバスのように、分類学ではなく見た目や習性に基づいたやや曖昧な定義で「バス」と呼ばれる一群の中にこの魚を位置づけた。どちらが正しいとも間違っているとも言うのではない。ただ命名はそれをする人間がどのような目的を持っているかによる、ということがここに表れている。

ただ、2つの名前を並べてみることで面白い発見もある。
なぜ分類の異なるさまざまな魚が、「バス」という一つのグループにまとめられるほどに似通った見た目や習性を備えたかという背景には、似た生態的地位を占める生物が似通った姿に進化する「収斂(しゅうれん)進化」という現象がある。たとえばブラックバスとピーコックバスとは、「科」より上のレベルで既に異なる分類に属しているのだけれど、淡水域での上位捕食者という位置づけが同じであったためによく似た形に落ち着いたのだろう。
でありながら、一方で決定的に異なる(と僕が考える)のは、ブラックバスが前後2つに分かれた背びれを持つのに対し、アイスポットシクリッドの背びれは(なんとなく前後で異なる雰囲気ながら)1つにつながっていることだ。これは紛れもなくシクリッドの面々が備えている特徴で、要するにどれだけ収斂進化したとしても争えぬ血はあるということらしい。

日本では一般的にあまり馴染みのない魚だけれど、「東京タワー水族館」では年季の入った大きな個体をたくさん見ることができる。長らく水槽で飼われたかれらに野性味はもはや感じられないけれど、いわゆる「バス」たちの中でも際立って口が大きく、強い魚食性を感じさせる顔だちには一見の価値がある。


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2016年01月22日

ナマズ Silurus asotus

Silurus_asotus_160122
スゴモロコを餌に、小ブナを襲っていたナマズの1尾を釣り上げた。成長途中で何かに襲われでもしたのか、尾びれがなかった

岡山の妻の実家に帰省すると、実家脇の川で魚をすくったり釣りをしたりするのがここ数年の恒例になっている。同じ冬の帰省でも、川の様子−水量や水草の繁茂具合や泳ぐ魚の顔ぶれといったこと−は、年ごとに異なる。今年目についたのは、大きなナマズが水路のそこここをうろついていることだった。

小ブナが渦巻くようにして群れるすぐ脇を、50センチは優に超えるナマズが悠々と泳ぎ過ぎてゆく。小ブナたちはナマズと一定の距離を保って、時には群れをふたつに割って間を通してナマズを避ける。けれども、危険な捕食者であるはずのナマズがやってきたからといって群れ全体が一目散に逃げるということはしないし、すぐ近くではスゴモロコたちが普通に釣り餌に食いついてくる。食うものと食われるものとのこの平和な共存は、とても奇異に映った。そういえば夏には大きなブラックバスが、同じ場所でやっぱり小魚たちと「接触可能」な距離でゆったりと屯ろしていたのだ。

捕食者には何やら「食い気」のようなものがあって、それを小魚たちは敏感に察知するのだろうか。だからそれを発しないナマズを必要以上に避けることはしないのかもしれない。そう思って眺めていると、小ブナの群れを割ってゆったりと体をくねらせていたナマズが突如加速して群れを追い越し、急に振り返って小ブナに喰らいついた。川底の澱が巻き上げられて一帯がぱっと濁り、小ブナがナマズのアタックを避け得たのかどうかは見えなかったけれど、鱗がキラキラと散らばったのが分かった。

突然目の前で行われた狩りに衝撃を受けてすっかり興奮してしまったのだけれど、襲われた当の小ブナたちは乱れた群れをまたすぐ一つにまとめて、逃げ出すでもなく相変わらずゆったり屯ろしている。そこをまた別のナマズが1尾、2尾と通り過ぎる。時おり、さっき見たのと同じ狩りの光景が繰り返される。そのあまりの静けさに、一つの「系」として不安定に均衡しつつ完成されている自然の姿そのものを見た思いがした。人間はこれにはかなわない、とも思った。


 
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2016年01月15日

マイワシ Sardinops melanostictus

Sardinops_melanostictus_160115

水族館のイワシといえば円柱型の水槽をぐるぐる回り続けるものというイメージだったけど、近頃は主役級の大水槽に美しく群れを作る姿をよく見かけるようになった。

一尾一尾が、脆くて剥がれやすい大ぶりな鱗に包まれた体側をきらきらと輝かせながら、群れの内側へ内側へとゆっくりと巻いていく。それが群れの形をまとめつつも絶えず変化させる。まるで一つの大きな生き物のようだ、などと月並みに考えていると、ときおり突き当たってくるエイや大型魚を避けて、静まった水面に石を投げ込んだ時の王冠のようにワッ!と驚きの形をした穴が開く。そうか、これは確かに意思をもった一つ一つの魚の集まりなんだと我に返る目の前で、また群れはゆっくりと一つの塊へと戻っていく。

大水槽に同居する大型魚にとっては頭の上をごちそうが泳いでいるようなものだけど、食べられないんだろうか。そう思ってたずねてみるとやっぱり食べられているようで、定期的に追加しないとどんどん減ってしまうそうだ。それを聞いて改めて水槽を眺めてみると、限られた空間に捕食者たちと閉じ込められているはずのイワシたちが、実に泰然と、群れを形作って運動し続けている姿が一種異様なものに見えてくる。われわれ人間であれば徹底的に岩陰や設備のすき間に逃げ込んで決して出て来はしないだろうに、イワシたちは、その一つの系として完結した空間の中で、ただゆっくりと内側へ内側へと巻き続けている。滑らかに形作った群れを、マグリットの絵の林檎のような奇妙な静けさとともに、青い虚空に浮かべている。


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2016年01月08日

カタクチイワシ Engraulis japonicus

Engraulis_japonicus_160108
梅干しに、カタクチイワシ

イワシのたぐいを煮付けるなら、選択肢は生姜か、梅干しか。

梅干しは実家の母が送ってくれたものが、なかなかすぐには消費されずに冷蔵庫で眠ったままになっているもの。そうして長らく手を付けていないくせに、梅煮にするとなると一度にみっつもよっつも使うのが勿体なく感ぜられて、結局はまた後生大事に冷蔵庫の奥に戻して生姜を刻むことになる。梅干しの方は久々に降って湧いた活躍のチャンスを逃して、次いつ取り出されるのか分かったものじゃない。

祖母は料理があまり得意ではなかったというのが母の談で、母はその分自分の子どもには豊かな食をと思って随分努力したらしい。味噌や梅干しを作るのを毎年の恒例としていたことは、祖母からそういうことを学ぶことなしに都会のマンション暮らしをしてきた母にとっては最初のハードルが高かったに違いない。母の梅干しはキュウっと酸っぱくて、たまによそのおうちや市販の梅干しでしょっぱいのや甘いのと比べると、母という人間の、いい意味で真っ直ぐに偏ったあり方がそこにしっかりと表れているような気がした。そんな、母の来し方が込められた梅干しが、いつまでも新しく手に入るわけではない。そう思うと、いつまでも冷蔵庫の奥にお守りのように鎮座させているのでもいいかな、という気にもなる。

人生初の梅煮は母のもので、かなりしっかりと梅干しの味がするものだったから、随分ぜいたくに梅干しを使っていたに違いない。やぶれた梅の皮がごてごてとイワシにまとわりついていた。梅煮ならば、やっぱりそこまで梅干しを活躍させたい。

* * *

今回の記事はどちらかというと梅干しが主題で「梅の譜」のようになってしまったけれど、主役のカタクチイワシがデザインにあしらわれたハンカチが「H Tokyo」さんから発売されます。1/21(木)夜には発売フェアのオープニングレセプションも。詳しくはこちらをご覧ください。


 
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2016年01月01日

「出世魚」 "Shusse-uo"

shusseuo
上から “セイゴ”(スズキ Lateolabrax japonicus の若魚)
“ツバス”(ブリ Seriola quinqueradiata の若魚)
“イナ”(ボラ Mugil cephalus の若魚)


成長とともに呼び名の変わる出世魚。その変わり方には一つのパターンがあって、未成魚の何段階かは地方によって異なる呼び名なのだけれど、最終的な成魚はどこも同じになる。たとえば「ブリ」だと
関東では:ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ
関西では:ツバス→ハマチ→メジロ →ブリ
東北では:ツベ→イナダ→アオ→ブリ
といった具合に(いずれもWikipediaより)。

このパターンが、実は人間の学術的な努力の痕跡だということをつい最近知った。少し考えれば当たり前のことかもしれないけど、未成魚のうちは地方によってさまざまに呼ばれていたものが、成魚になって突如全国どこでも同じように呼ばれるということは偶然にはありえない。これは、魚種ひとつひとつに学術的な標準和名を付けてゆくという取り組みの結果ということらしい。ある地方におけるワカシ、また別の地方におけるアオという魚が、いずれもひとつの魚の異なる成長段階を指すことを明らかにし、それを成長段階にかかわらず「ブリ」であるとまとめたのだ。だからどの地方においても成魚という「完成形」においてはブリと呼ばれることになる。

これは大変な労苦を伴う一大事業であったに違いない。「名付け以前」ののっぺりとした世界に人類が名前をつけて切り分けていった作業の果てしなさは何度も想像したことがあるけれど、その切り分けが既に同時多発的になされている世界でそれをまとめ直してゆくことには、きっと異なる困難がある。事物だけでなく、人間の認識やその表れとしての文化にも向き合わなければならないからだ。

何気なく眺めていた出世魚の名前にも、人間が積み重ねてきた叡智の跡がにじんでいる。


 
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