2016年02月26日
カネヒラ Acheilognathus rhombeus
カネヒラという魚のこの優美さはどうしたことであろうか。昨年の夏の夕方、帰省のたびに小魚たちとたわむれる妻の実家脇の三面護岸の小川で、初めてこの魚を手にした。せいぜい6センチ程度の個体で婚姻色はまだうっすらだったけれど、夏のたそがれ時の熱っぽく陰影を孕んだ陽の光はこの手の艶やかな色に深みを及ぼすにはもっとも適したものらしい。ケースの中で左に右に身を翻す姿にひきこまれるようにして、夢中で写真を撮った。
この年は小魚が豊かで、サシを餌にしたタナゴ針の釣りは大いに振るったけれど、このカネヒラは凄艶と言ってよいほどで他に及ぶものがなかった。昼間見た婚姻色のオイカワ、これもまた比類がないと思わされる美しさだったけれど、そのオイカワの振袖姿がいささか健康的に見えすぎるほどの、カネヒラの危うい美しさだった。
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2016年02月19日
アイゴ Siganus fuscescens
僕が「釣友」と呼ばせてもらっても差し支えないであろう数少ない方々のひとり、音楽家の高岡さんが、昨年の秋に伊東でお連れの方と一緒に大きなアイゴを釣られていた。なんとサビキ釣りで。アイゴには少し思い出す景色があるのだけれど、僕は釣ったことがない。羨ましかった。
思い出す景色というのは7年ほど前の、夜の品川だ。港南口を出て、土地に馴染みのない身には意外に硬くよそよそしく感じる飲み屋街を抜けて、高くて白い工事現場の壁の横を小さく歩いて、東京海洋大学に向かった。ビッグサイトのエコプロ展で知り合った方が海洋大にお勤めで、僕の絵に使いどころがあるかもしれないと見てくださることになったのだった。鯨ギャラリーほか、建物のところどころに青黄色い蛍光灯が点いている構内を、その方の研究室目指して歩いた。
当時の僕の絵はいま思えば小学生の頃にノートに描いていた魚の絵からさほど変わるものでもなく、その方もじゃあ使いどころは、というと少し困ったのかもしれない。けれどもその方は「研究の世界でなされていることを世の中に伝えるための絵」が時には必要であることを、その世界のさまざまな事情を絡めつつとても好意的に聞かせてくださった。そして絵をまとめたファイルをめくりながら、ふと手を止めて「お、これはアイゴですね」と言った。僕は誰かに絵を見てもらうことなど初めてに等しくて、その絵がアイゴであることが伝わったことに安堵と感謝とちょっとした自信をおぼえたのだった。その後その方とは連絡を取らなくなってしまったけれど、もしこの先また出会うことがあれば、ちょっとはうまくなりましたよ、などと気障なことを言ってみたいと思っている。
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2016年02月12日
メギス Labracinus cyclophthalma
昨夏、八重山へ旅行した。石垣に一泊して竹富へ渡るはずが、こちら目がけていっさんに駆けてくる台風のせいで連絡船が欠航し、足留めを食うことになった。波浪に備えてガリバー的に船が繋がれた港でしばらく釣りをしたけれど、さすがに風が出てきたので後ろ髪を引かれつつホテルへ戻ることにした。するとホテル前の岸壁は至って穏やかで、地元の人も小さなクワイカをぽんぽん釣り上げたりしているのだ。島を取り巻くリーフが白波を受け止めて、どうどうと砕くのが遥か沖に見える。
海をのぞくと小魚たちがひらひら舞っている。コンビニで調達した「たこわさ」を餌に糸を垂れると、先を争って群がってくるのだけれどなかなか針に掛からない。諦めて底の見えない深みに仕掛けを送ると、軽くはあっても荒々しくひったくるようなアタリでこのメギスが釣れた。ただ、関東の海では見かけない魚なものでそのときは何という魚なのか分からない。
手のひらに載るかわいいサイズだけど、ハタの仲間をそのまま小さくしたような獰猛な顔をしている。受け口からのぞく歯は鋭くて、ハタ科の小型魚であるサクラダイを思い出させた。撮影用のケースに泳がせると、洋ナシ型に尖った黒目をギョロつかせて辺りを睨めつける。その相貌に威風があって実にいい。
じきに台風がそれらしい強弱を伴ったぬるい雨粒をばら撒き始めた。いい魚に出会った高揚感を雨からかばうようにして、ホテルへと駆け戻った。
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2016年02月05日
オヤニラミ Coreoperca kawamebari
20年前、僕にとってオヤニラミは「憧れの日淡(=日本産淡水魚)」で、ホームセンターでついに手に入れたときの嬉しさはよく憶えている。体長5センチほどの幼魚で、でもベージュのラインで強調された鼻筋の急角度に大きな受け口、洋ナシ形に尖った瞳は、そのサイズに似つかわしくないふてぶてしい肉食魚の相貌をなして、惚れ惚れするようなかっこよさだった。
この独特の雰囲気に魅了される人は多かったに違いない。その後オヤニラミはショップで普通に見かけるほど流通するようになって、それに伴い逃亡や放流が随分あったのだろう、少しずつ「国内外来種」の文脈で語られるようになった。ブラックバスやブルーギルのように、「海外から来ました」と分かりやすく顔に書いてある面々だけが外来種なのではない。国内にあっても本来の生息地ではないところに人の手で移されて定着したものは、生態系を撹乱しうる外来種なのだ、という認識が浸透しつつある。オヤニラミやハスはその代表格として取り上げられているのをよく目にする。
この「国内外来種」という考え方は、外来種の問題に対する社会の認知が成長していることの証に見える。外来種というと、以前は「海外からやってきた強い外来種に、日本の繊細な在来種が駆逐されてしまうのは困る」という情動で捉えられることが多かった。けれども、この問題の根本はそんな「攘夷」的な気分の中にあるのではなく、外来種の移入によって生き物の勢力図の色数が減る=多様性が損なわれることで、生態系に不利益がもたらされることにある。その点を鑑みれば、外来種が国外のものか国内のものかという別は、(一般に国外外来種の方が影響力が大きいだろうとは言え)その違いは程度のものであって本質的なものではない。生態系と、そこに拠って立つ人間に不利益がもたらされるという意味では違いがない。
また、そこから考えれば「魚が悪者」なのでは当然なく、また「観賞魚飼育やバスフィッシングが悪い」わけではないことも当たり前に導かれる。問題はあくまで生態系の撹乱であり、「悪者」が誰かといえばそこに直結する放流や逃亡なのだ。生態系を撹乱せずに観賞魚飼育やバスフィッシングを楽しむ方法はいくらでもあるに違いない。(と言っても、今の状況ではある程度それらが締め付けられるのは仕方ないとも思うけれど。)
ものが見えている専門家や有志は、おそらく早くからそのことを社会に投げかけてきた。それが少しずつ僕のような市井人にも浸透しつつあるのを目の当たりにして、社会的な認知の形成というのは大したものだと思う。人間は賢い、と思う。
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