
魚が好きでいると時折、「食べること(また、そのために殺すこと)に抵抗はあるんですか」と訊いていただくことがある。
そういう時はいつも、いえ、食べるのも殺すのも全然抵抗ありませんと答えることにしている。実際僕は魚が心底好きだけれど「愛護家」ではないので、食べるためにイワシを釣りに行けば躊躇なくクーラーボックス送りにするし、自分が釣ったイワシの腹を開くのにもまったく抵抗はない。
ただ、それはあくまで最初から「食べるため」の釣りだからであって、ただ魚の顔を見るためにしている普段の釣りでは、魚の死ぬところはあまり見たくない(そのスイッチの切り替えはおそらく、多くの釣り人がしていることだと思う)。
とりわけ好きでよく狙うムラソイのように、ひとところにとどまって年月を重ねながらゆっくり成長してゆく魚に出会うと、そこに流れてきた時間を断ち切ることへの恐怖心のようなものが生じる。
この、いっぴきの魚に流れてきた「時間」という概念を教えてくれたのは2009年の暮れに近所の図書館で出会った一冊の本だった――奥野良之助『磯魚の生態学』。
気づけばもう5年以上前のことで、細かい内容は記憶から抜け落ちているけれど、とにかく著者の奥野さんの「研究対象(生き物)にも、かれらなりの時間が流れている」という自然観が強く印象に残った。目の前のことを「現象」として律して客観的に見る視点だけでなく、そこから生き物の生について、ひいては人間の生き方についても思いを巡らせる。これぞ知性というものだと思った。
その『磯魚の生態学』第1章、第1節で、学生時代の奥野さんにそんな自然観のきっかけをもたらした魚との出会いが描かれている。和歌山県は白浜の磯で海の中をのぞいていた奥野さんの目の前に現れたコブダイの老成魚。
この一節の素晴らしさが、魚の絵を描き続けたいという僕の気持ちの一つの源泉になっている。
――私の心をしっかりととらえたものは、そのコブダイの体のあちこちにあった、古い傷あとである。目に見えないほどの小さな卵として産みだされてから十数年、このコブダイは、おそらく数かぎりない生命の危険をくぐりぬけ、生きぬいてきたのだろう。その傷あとのいわれは、もちろんわからない。しかし、その一つ一つが、このコブダイの生活におけるたたかいの歴史を、まざまざと示している。
――老成したコブダイとの出会いをきっかけにして、私はそれから、海に潜って魚の生活を眺めるという、浮き世ばなれのした研究生活をおくることになってしまった。それまでは、魚といえば単なる食べ物にすぎぬと考えていたのだが、このコブダイは、自分の受けた傷あとを見せることによって、一尾の魚にも、ゆたかな歴史があるということを、私に感じさせてくれたからである。
posted by uonofu at 18:00|
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魚の譜