2016年04月29日

マトフエフキ Lethrinus harak

Lethrinus_harak

これまで魚に出会う手段といえばもっぱら堤防からの釣りだったのだけれど、石垣島に移り住んでようやくシュノーケリングをするようになった。会社勤めの終わりに餞別としてもらったシュノーケルとマスクとフィンのセットはいい具合で、おぼつかない身のこなしながらも初めて覗き見る海の様子に夢中になっている。

家から雑木林を抜けてすぐの浜は、サンゴ混じりの砂底がずっと続く遠浅で、顔を水に浸けるとアマモの草原がぐんと広がっている。小さなイシモチやスズメダイの仲間がそこここの窪みやサンゴの陰に見られて、かれらに目をこらすのに夢中になっていると、突然目の前を25センチほどの魚が泳ぎ過ぎた。マトフエフキだった。

水中で出会う初めての「大きな」魚の姿をしっかり目に焼き付けようと、すいすい泳ぐ魚体を追ってぐるりと顔を回したけれど、悲しいかな鈍臭くもがいているうちに草原の向こうへ去ってしまった。印象に残ったのは「水の色そのものだった」ということ。人の手の中で陽の光をキラリと照り返し、エラを膨らませてこちらを見る魚の姿が好きでそれを追いかけてきたけれど、これからは水中の姿にも「好き」を見出していきたいと思っている。


 
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2016年04月22日

ハモ Muraenesox cinereus

Muraenesox_cinereus

食の好み、特に「嫌い」や「好きじゃない」を言うときは、自分がその食材のベストに出会っていないだけではないかと疑ってみるのがいい。僕は食べ物の「嫌い」があまりないのだけれど、「特に好きでもない」は誰しもそうであるようにいくらでもあって、ハモも微妙にその中に含まれている。そしてやっぱり、まだベストのハモに出会ってないんだろうなと思っている。

大阪にいたころ特に意識したことはなかったけれど、ハモはとにかく上方のものらしい。確かに、夏の風物とまでは言わないけれどひと夏に一度くらいは、湯びきに梅肉をのせたものが食卓に上がっていた気がする。庶民の味だということだけれど、わが家ではきっとデパ地下なんかで買い物をして、ちょっと贅沢したときのメニューだったに違いない。ただ、子どもの僕はなんだか水っぽくてあまり味のないものだと思っていた。

大人になってからも何度かハモに出会っているはずだけど、「これは!」という体験はまだしていない。今のところの最後は京都の錦市場。河原町からてくてく歩いて京都水族館に向かう道すがら、錦市場でハモ天の串を買って歩き食べした。ふわりとした舌触りの中にかすかに骨の名残を感じるのも好ましく、身は美味しかったのだけれど、残念なことに店の主人のなにわ風に逞しい商魂と、ノールックで盛大に振りかけられた塩のしょっぱさばかりが強く印象に残っていて、これでハモを語るのは気が引ける。
ハモの好き嫌いが本当に分かるのはまだもう少し先のことらしい。


 
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2016年04月15日

ニホンウナギ Anguila japonica

Anguila_japonica

人間は朝昼夜の基本三食、ということに、少なくとも日本ではなっている。人間自身のこの食習慣と、「1日」を単位とする生活サイクルの中で魚を飼うならどういうタイミングで給餌するのが人間にとって無理がないかという事情とによって、いつの間にか人間は魚の食事も「1日○回」を基本に考えるようになっている。

けれども実際には、魚の食事は必ずしも「1日○回」とは限らない。釣りをしていると朝まずめ、夕まずめといって日に二度「食いが立つ」時間帯があるというけれど、それ以外の時間帯でも魚たちは餌に食いついてくるし、潮だまりで水面に顔を近づけて魚たちの動きをじっと眺めていると、絶えず何かをついばんで食べている。つまり魚たちには人間のような「食事の時間」というものはなく、チャンスがあれば常に何か食べているのが自然なのだ。そう思うと、自分の水槽の中の魚たちが人間式に「餌の時間」にまとめて食べている姿に、少し申し訳ない気持ちも湧いてくる。

それとは逆に、「ある一定期間まったく食べない」のもまた、生き物にとっては自然なことである場合がある。ウナギは産卵のためにはるばるマリアナ海溝へ回遊する、その間ほとんど餌を摂らないらしい。詳しくは忘れてしまったけれど、ウナギを長期飼育している方のブログで、ある一時期からまったく餌を食べなくなり、そのまま数年生きているというような記事を目にした記憶がある。科学的、学術的にウナギの生態の全容が解明されるのはまだもう少し先なのかもしれないけれど、少なくとも食事に関しては、人間の「朝昼夜の毎日三食」を基準にはとても考えられない生き物らしい。


 
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2016年04月08日

コブダイ Semicossyphus reticulatus

Semicossyphus_reticulatus

魚が好きでいると時折、「食べること(また、そのために殺すこと)に抵抗はあるんですか」と訊いていただくことがある。
そういう時はいつも、いえ、食べるのも殺すのも全然抵抗ありませんと答えることにしている。実際僕は魚が心底好きだけれど「愛護家」ではないので、食べるためにイワシを釣りに行けば躊躇なくクーラーボックス送りにするし、自分が釣ったイワシの腹を開くのにもまったく抵抗はない。

ただ、それはあくまで最初から「食べるため」の釣りだからであって、ただ魚の顔を見るためにしている普段の釣りでは、魚の死ぬところはあまり見たくない(そのスイッチの切り替えはおそらく、多くの釣り人がしていることだと思う)。
とりわけ好きでよく狙うムラソイのように、ひとところにとどまって年月を重ねながらゆっくり成長してゆく魚に出会うと、そこに流れてきた時間を断ち切ることへの恐怖心のようなものが生じる。

この、いっぴきの魚に流れてきた「時間」という概念を教えてくれたのは2009年の暮れに近所の図書館で出会った一冊の本だった――奥野良之助『磯魚の生態学』。
気づけばもう5年以上前のことで、細かい内容は記憶から抜け落ちているけれど、とにかく著者の奥野さんの「研究対象(生き物)にも、かれらなりの時間が流れている」という自然観が強く印象に残った。目の前のことを「現象」として律して客観的に見る視点だけでなく、そこから生き物の生について、ひいては人間の生き方についても思いを巡らせる。これぞ知性というものだと思った。

その『磯魚の生態学』第1章、第1節で、学生時代の奥野さんにそんな自然観のきっかけをもたらした魚との出会いが描かれている。和歌山県は白浜の磯で海の中をのぞいていた奥野さんの目の前に現れたコブダイの老成魚。
この一節の素晴らしさが、魚の絵を描き続けたいという僕の気持ちの一つの源泉になっている。

――私の心をしっかりととらえたものは、そのコブダイの体のあちこちにあった、古い傷あとである。目に見えないほどの小さな卵として産みだされてから十数年、このコブダイは、おそらく数かぎりない生命の危険をくぐりぬけ、生きぬいてきたのだろう。その傷あとのいわれは、もちろんわからない。しかし、その一つ一つが、このコブダイの生活におけるたたかいの歴史を、まざまざと示している。
――老成したコブダイとの出会いをきっかけにして、私はそれから、海に潜って魚の生活を眺めるという、浮き世ばなれのした研究生活をおくることになってしまった。それまでは、魚といえば単なる食べ物にすぎぬと考えていたのだが、このコブダイは、自分の受けた傷あとを見せることによって、一尾の魚にも、ゆたかな歴史があるということを、私に感じさせてくれたからである。



 
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2016年04月01日

メジナ Girella punctata

Girella_punctata

昨年の晩秋、南伊豆で生き物の絵を描き続けているラッセルさんのもとを訪れた。自然に囲まれた瀟洒で気取りのない、部屋の中にいながら四方八方の壁から森の呼気を深々と吸い込めそうなおうちでたっぷりのおいしい食事とお酒をごちそうになって、おやすみなさいと上機嫌で酔いとともに床に就いたほんの3時間ほど後には、また笑顔で起き出して近くの漁港にイセエビの水揚げを見に行った。

イセエビは月明かりがあると獲れないそうで、月が満ちてくると漁はお休み。そのギリギリ最後の水揚げとあって、網に絡まっているイセエビは小さなものがちらほら、という程度だった。先の曲がった、フック船長の義手の小さいのみたいな道具でおばさんが黙々とエビを外してカゴに放り込んでいく。

と、空になった網がこんもりと積み上がった中に25センチほどのメジナが1尾横たわっているのが目に入った。この魚らしい、滑らかに筋肉で張り詰めた胸元が漁港の青黄色い電灯の光を受けて光っている。体はじっと横たえたままだけれど確かに生きていて、水から上げられた魚の多くがそうするように、目をぐっと下にやって時折えらを動かしている。何か見えているのか否か、それは分からないけれどじっとこちらに視線をやる瞳を取り巻いて、暗くてもそうとわかるほど鮮やかに水色の環が細く光っていた。その表情を脳裏にありありと思い出しながら、この絵を描いた。


 
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