
石垣島へ移り住んで、初めて水の中で出会った「大きな」魚がマトフエフキだった。家の前の伊土名の海にたくさんいて、好奇心が強いのかこちらを横目に見ながらぐるりと円弧を描くように泳ぐ。大きな目と尖った口先が印象的な顔立ちは海の中でも愛嬌たっぷりに見えて、いつもと違う浜でも出会うと少しホッとするほど愛着のある魚になった。
つい先日、愛用していた防水カメラをふとした拍子に水没させてしまい、しばらくは海に潜っても写真を撮れないことになってしまった。またどうも右耳の耳抜きがうまくいかず、潜るたびに不調を感じるようになっていたので、しばらくは潜るのをやめてもっぱら釣りで魚と出会うことにした。そうして2日目に、潜りはしたことのない漁港で大きなマトフエフキが釣れた。置いていた竿があわや引きずり込まれるほどのパワーだった。
堤防に横たわる魚体は夕陽を浴びて、水の中では見たことのない金色に光っていた。ほれぼれと眺めて写真を撮った後、ためらいなくエラを切り落として絞めた。その日は大きな魚が釣れたら夕飯のおかずにしようと思って包丁を持って行っていたのだった。いつも伊土名で一緒に泳いでるのと同じ魚だと知りつつも感傷はなく、刺身が食べられることの嬉しさばかりが頭にあった。ただ、満足して釣りを終えて、すっかり陽の暮れた漁港を引き揚げようと魚の入った箱を小脇に抱えて立ち上がった時、箱の中の魚への愛着が急に湧き上がって少しだけ胸が締め付けられた。
刺身も、アラの蒸し物も、翌日の昆布締めも、またすぐにでも釣って食べたいと思うほどに美味しかった。愛着のあるものの息の根を、スッパリ絶って楽しく食べる。相反するようでいて、これこそ人間が自然に接して生きる上で数限りなく繰り返してきたことなんじゃないかという気がする。