2017年02月24日

ナキオカヤドカリ Coenobita rugosus

Coenobita_rugosus

初めて石垣・竹富を訪れた2年前の夏、浜という浜はどこへ行っても小さなヤドカリでいっぱいだというのが小さな発見だった。砂を踏んで歩いてゆくと、足下でざわざわ動いていた小さな貝殻たちが次々慌てたようにうずくまる。そしてこちらがそのまま息を潜めていると、またそこらじゅうもぞもぞと動き始めるのだ。当時は東京に住んで、週末ごとに三浦半島や東伊豆の地磯を巡っていたから、けっしてヤドカリというものが物珍しかったわけではない。けれども視界の中で一度にこれほどたくさんが動いているのは初めての経験だった。

ヤドカリという生き物にあまり注意を払わずにきたもので、こうして足下を歩いているヤドカリたちが関東の海にいるのとはちょっと違うなと気がついたのは少し経ってからだ。この子たち、水に入らずに陸を歩いてばかりいるけど、三浦の磯のはけっこう水の中にいるよな。それにこの子らは殻に引っ込むと爪と脚できれいにフタをするけれど、三浦のはこんな引っ込み方してたっけ…

かれらがオカヤドカリという仲間だと教わったのはその後のこと、そして日本で見られるオカヤドカリの「すべて」が天然記念物であって、簡単に言うと「触っちゃダメ」だと教わったのはそのさらに後のことだった。そうなると何とはなしの近寄りがたさを感じて、こんなに身近にたくさんいるのにそのまま興味を深めずにきてしまった。けれどもこのほど愛に満ちたオカヤドカリ本を購入し、また絵に描くことにもなったので、よく見ようと浜へ探しに出た。本体も背負う貝殻もバリエーションに富んで、眺め飽きない。爪をひっかけて案外スムーズに流木を登ったかと思うと、転げ落ちて岩陰に慌ただしく駆け込んだりする。そんな姿はユーモラスで愛らしい。

絵に描こうと思えば貝殻と本体両方を相手にしなければならず、どちらも描き慣れた魚とは質感が違うこともあって「一粒で二度苦しい」。けれども改めてこの仲間の魅力に触れて、世界が少し広くなった喜びを感じている。


 
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2017年02月17日

マダイ Pagrus major

Pagrus_major_170217

先の年末、岡山の妻の実家でのんびりと午後を過ごしていると、車で30分ほどのところに住む伯母さんが鯛を持って訪ねてきた。顔つきに凄みが漂い始めているほどの、立派に大きく育った鯛だった。

夕方、筆洗の水を汲もうかと台所を覗くと、お母さんがまな板の上の鯛を前にどこから刃を入れようかと思案している。この大きさだ、背骨はさぞ硬いに違いない。お母さん、僕切りましょうかと声をかけると、いい?ごめんね、と言いながらまな板の前を譲ってくれた。差し出された少し小ぶりの出刃包丁の柄を握ると、使い込まれてしっとりと穏やかな木の質感が、右手の平にひたり、と収まった。

あかがね色の皮に刃を下ろすと、かすかに吸いつくような感触とともに滑らかに吸い込まれて、すぐに背骨がそれを受け止める。そのままぐいと力を入れるけれど、骨は少したわんだだけでびくともしない。大丈夫?ーはい、やっぱり硬いですねと話をしながら、握りこぶしで峰を叩くとドスンと切れた。心地よい切れ味だった。お母さんの手によく馴染んでいるであろう愛用の包丁だけれど、僕の手を拒むようなところは少しも感じなかった。料理に対する心尽しが、形になって手の先に現れているような包丁だと思った。そうして背骨つきの半身をいくつかに切り分けて、初めて料理を手伝った子どものように晴れがましい気持ちでお母さんに包丁を返した。

鯛は煮付けになった。例によって食卓はご馳走いっぱいのオールスターで、普段は四番を張って当然の鯛ですら、隅で多少控えめにしている。これおれが切ったやつだ!とまた子どものように誇らしく思いながら、カマの部分を銘々皿に取り上げた。煮汁に浮いた脂をうっすらと纏った身はぷっくりと膨れつつふわりとして、これぞ鯛という味が確かに舌の上に広がった。


 
posted by uonofu at 17:10| Comment(5) | 魚の譜

2017年02月10日

イソゴンベ Cirrhitus pinnulatus

Cirrhitus_pinnulatus

ゴンベとはすなわち「権兵衛」で、実に味な名前が付いたものだ。

由来は江戸時代の子どもの髪型で、頭の後ろ、「ぼんのくぼ」の部分を少し剃り残す「権兵衛スタイル」から来ているのだという。ゴンベの仲間には背びれ後半の最初の条が長く伸びる種が多く(残念ながらこのイソゴンベは当てはまらない)、その姿を髪型になぞらえたということだ。いやちがう、背びれ後半の条ではなくて、背びれ前半の棘の先から出ているツンツン(これはイソゴンベにもある)を権兵衛スタイルに見立てたのだ、とする説もあるようだけれど、いずれにせよ髪型なのは間違いない。

しかし名の由来にそこまで筋の通った定説がありながら、そのことが残念に思えるほど、このゴンベの仲間というのは少し滑稽な人間味に溢れている。「権兵衛」という、とんち話や滑稽話のそそっかしい隣人を思わせる愛すべき響きが、この魚にはぴったりなのだ。たとえばこのイソゴンベの顔を見よ。カサゴやハタの類と同じく磯に暮らす貪欲な肉食魚でありながら、彼らのようなシャープな獰猛さは微塵もない。加えてこのズングリとした体型に、つるりと滑らかな体表の質感。この魚を見るといつも、よく食べるぽっちゃりした小学生を思い浮かべてしまう。

イソゴンベに限らない。シュノーケリングでも水族館でもよく見かけるベニゴンベやメガネゴンベ、ホシゴンベたちは、やや開けた空間に面した岩やサンゴの上で胸びれをぐいと突っ張らせ、小さな姿で精一杯胸を張って「下界」を眺め下ろす(その姿が鷹を思わせることから英名はhawkfishというのだと、数年前のさかなクンさんのトークショーで知った)。そして突然慌てたように駆け下りたかと思うと、また岩やサンゴの合間を縫って同じお気に入りの場所に戻ってくる。とぼけた顔と、その動きの少しバタついた慌ただしさは、いかにも人間くさい。

だから「権兵衛」というのも、姿からの見立てという「論理的」な名付けではなく、昔の漁師たちがこの魚の人間くささへの親しみを込めていつしか名付けたもの、というようなストーリーであってほしかった。「名無しの権兵衛」という言葉もあるくらいだし、この名前の持つ独特な匿名性はそんなストーリーによく似合う。表向き定説に従いつつも、この異説にも可能性があると僕は密かに思っている。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(0) | 魚の譜

2017年02月03日

ホタルイカ Watasenia scintillans

Watasenia_scintillans

母と姉は茹でたホタルイカが好きで、子どもの頃よく食卓に上っていた。僕はそこに添えられた「辛子酢味噌」が食わず嫌いで(頭の中で辛子と酢と味噌を混ぜてみたときに、それがおいしいという想像がどうしてもつかなかった)長らく手をつけずにいたのだけれど、高校生の終わり頃に何かのきっかけでホタルイカのおいしさを知ったらしい。大学生になって一人暮らしをして、毎食自分の食べるものを自分で決めるということを初めて経験した僕は、よくバイト終わりにボイルのホタルイカを買って帰っていた。遅い時間のスーパーに売れ残っているホタルイカには鮮度に当たりハズレがあって、何度か立て続けにハズレを引いて失望するまでそのホタルイカ熱は続いた。だからいまだにホタルイカといえば、京都は今出川通りの小さなスーパーの、夜9時を回って空きが目立ち始めた生鮮の陳列を、仕事帰りの人たちが少し疲れた雰囲気で眺めている様がありありとまぶたに浮かぶ。

そんなわけで僕の知っているホタルイカはもっぱらボイルされた臙脂色のもので、生の実物にようやく出会ったのは6年前、妻の両親が東京へやって来たときに連れていってもらったお寿司やさんでのことだった。目の前に並んだのは透明感のあるただ小さな普通のイカで、箸でつまみ上げると青く光る液体が滴り落ちる…わけはなく、電池を思わせるケミカルな味がする…わけもまたなく、小さな七輪でさっと炙るとボイルのものよりあっさりとして品のいい味がした。

会社員時代の同僚で富山の海のそばを出処とする友人は、産卵期のホタルイカが接岸して浜に打ち上げられるのをよく獲りに行ったということだ。「ホタルイカといえば基本ボイル」の僕が描いたこの絵の出来は、彼女に一度判定してもらわなければならない。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(5) | 魚の譜