2015年07月24日

“タマン”(ハマフエフキ) Lethrinus nebulosus

Lethrinus nebulosus

北杜夫の『どくとるマンボウ昆虫記』にこんなエピソードがある。幼い北さんが高価な昆虫図鑑に一目惚れし、一年以上悩んだ挙句ようやくそれを購入する。喜んでページをめくってみると、どうも見慣れない蝶ばかりが並んでいる。何かおかしいと思ってよくよく表紙を見ると、それは台湾や朝鮮の昆虫を扱った「続編」だった。間違いに気付いた北さんは深く深く落胆して、一時昆虫に対する興味を失いかける―。

この落胆はよく理解できる気がする。僕も図鑑が大好きな子どもだったけれど、外国の昆虫にはあまり興味がなかった。僕にとって図鑑は、異国の生き物を眺めて夢や憧れを膨らませるよりも、身近な生き物を知り、それを実地に確かめるためのものだった。僕の好奇心は、目の前の日常と知識とを結びつけることに向けられていたらしい。

八重山へ旅行するにあたって、心配なのはその点だった。南の海の魚たちは、普段慣れ親しんでいる関東近郊の海の魚たちとは随分顔ぶれが違う。見慣れない魚たちと、かれらに与えられた聞き慣れない八重山の地方名。その道のプロフェッショナルの方々が何でも教えてくださる贅沢な旅とは言え、僕自身の好奇心が追いつけなくなるのではないかと不安だった。

この旅初めての「見慣れない魚」は、2日目に出会った“タマン”(ハマフエフキ)だった。八重山の自然と海人に精通しているNさんがルアーで釣り上げたタマンの若魚は、僕がひそかに抱え持っていたそんな不安を一瞬で吹き飛ばした。図鑑では少しアンバランスな魚に見えていたけれど、実際に手にしたタマンのこの気品ある姿かたちはどうしたことだろう。鼻先の突き出した顔は惚れ惚れするような滑らかな曲線をなしているし、内側から輝くようなレモンイエローとスカイブルーを包んだ真っ白な鱗が整然と陽の光を照り返すさまは、どれだけシャッターを切っても満足できないぐらい美しい。

この海がこの魚を生んだんだ、という説得力が頭を直撃した。見慣れない魚だったはずのタマンは、八重山の自然の中でごく当たり前の日常として手の中にいた。目の前の生き物の姿に好奇心が追いつかない、などと感じる間もなく、僕はちっぽけな知識ごと八重山の圧倒的な自然に呑み込まれて、5日間を過ごした。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(0) | 魚の譜
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