2013年01月11日

キンギョ Carassius auratus auratus

Carassius auratus auratus
(上)和金 Wakin (中)出目金 Demekin (下)東錦 Azumanishiki

西武池袋本店の屋上にいる金魚たちはあまりに美しくて、青い生け簀を泳ぎ回る姿を眺めていると、何だかあるべきものがあるべきところに収まったというような深い心地好さに包まれる。そして普段はそんなことを思いもしないのに、自分が一番好きな魚はやっぱり金魚なんや、金魚ってやっぱり世界で一番きれいな魚や、と子どもっぽい胸騒ぎがする。いつまで眺めていても飽きそうにない。

いつまで眺めていても飽きないのは、泳ぐ姿のどの瞬間を切り取った画も、どの時間を切り取った動きも、常に今のこそがベストだったと思う上書きの連続だからだ。幾重に塗り重ねたかと思うような深さなのに、涼やかな透明感のある赤。絹織物のように緻密な鱗模様の下に、血の通った生き物らしさが透けて見える白。身を翻すたびに、あるものは太く力強く、またあるものは絵の中の羽衣のように軽やかに、ひれが踊る。

そんな金魚を前にすると、だから、自分の目と記憶の頼りなさがもどかしい。全てを残しておきたいぐらいなのに、自分にできることはその眺めを記憶に焼きつけておくことだけだ。記憶などという、とてもあやふやで再現性のないものに。だからといって、写真や映像に残したって気は少しも楽にならない。逆に不安を煽るのは、パーフェクトにその瞬間や時間を保存し、いつでも忠実にそれを再現して見せることができるはずの写真や映像が、実は取り返しのつかない大きな「何か」をいつも取りこぼしているということ。それに、写真や映像が残されるとしても、このとき目の前にあった「本物」のこの瞬間や時間は、もう過去に流れ去って決して手が届くことはないという絶望感。

だから金魚はひりひりするような切迫した美しさに満ちて、儚い。花火にとてもよく似ている。



   
posted by uonofu at 18:00| Comment(0) | 魚の譜
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