2013年11月29日

コブダイ Semicossyphus reticulatus

Semicossyphus reticulatus

魚の絵を描き始めた頃、勇気の源になった良書『磯魚の生態学』には、著者の奥野良之助さんが魚の研究に没頭するきっかけとなった老コブダイとの出会いが描かれている。青黒い海の底から現れ、体をひるがえしてまた深い海へと泳ぎ去っていったその一瞬の姿を、奥野さんは「いまだに忘れることはできない」と言う。そのコブダイの体のあちこちの「古い傷あと」を、目の当たりにしたからだ。

“目に見えないほどの小さな卵として産み出されてから十数年、このコブダイは、おそらく数かぎりない生命の危険をくぐりぬけ、生き抜いてきたのだろう。その傷あとのいわれは、もちろんわからない。しかし、その一つ一つが、このコブダイの生活におけるたたかいの歴史を、まざまざと示している。”

「魚と言えば単なる食べ物にすぎぬと考えていた」という奥野さんは、それ以降「一尾の魚にも、ゆたかな歴史がある」という瑞々しくも尊い感性をもって、自ら海に潜り魚の生活を眺めるという研究を続けることになる。
(『磯魚の生態学』の感動について、より詳しくはこちら。)

* * *

コブダイは性転換をする魚で、若いうちは雌、50センチを超えるあたりまで成長すると雄になる。これは一夫多妻のハーレムを形成する彼らの繁殖戦略上、とても理に適っている。体が小さく競争力が弱いうちは、一夫多妻の「妻」として争わずして自らの子を残す。そして体が大きくなって競争力を得ると、今度は一夫多妻の「夫」に君臨して効率的に多くの子を残す。奥野さんが出会った老成魚は、ハーレムを守るために歴戦をくぐり抜けてきた雄の猛者、ということになる。

年老いた大型魚の風貌にはぞっとするような生々しい迫力が宿るものだけれど、その中でもコブダイの奇相は際立っている。額が盛りあがる魚は他にもいるから(例えば同じベラ科のナポレオンフィッシュ)、それだけならさほど見慣れないものでもない。が、コブダイの場合は額だけでなく顎までもが丸々と膨れあがり、少し開いた口から牙のような歯が覗いている。この顎でサザエの殻をも噛み砕いて食べてしまうらしい。

佐渡の海には「弁慶」と名付けられて20年ほどもダイバーに愛されたコブダイがいたそうだ。昨年の冬からライバルの「ゴル」とともに姿を見かけない、ついに死んでしまったのか…という悲しげなニュースを見た。そんなふうに愛された彼とて写真で見る限りは、何も知らずに潜った暗い海の中で出くわせばパニックを起こすんじゃないかというような恐ろしい顔なのだ。
瀬戸内に浮かぶ六口島(むくちじま)の生簀で大きなコブダイを見たことがある。覗き込むと餌をねだるのか、海水をぴゅっと吹き出したり水面からおでこを出すのが可愛らしい。つい額の瘤を撫でたくなるのだけれど、指ぐらい簡単に食いちぎりそうな顎を見てはどうしても手が伸びなかった。


 
posted by uonofu at 18:00| Comment(2) | 魚の譜
この記事へのコメント
大阪のおばちゃんが良く使う「シュッとした顔」の魚(ブリやら鯖)というのは愛嬌が感じられないが、このコブダイやらクエやら不細工でイカツイ顔の魚は愛嬌あって個性も際立ちますよね。ベタもその部類に入るかと思います。僕はこんな不細工な魚たちが好きだなぁ〜。
Posted by aloha at 2013年11月30日 11:49
alohaさん、こんばんは。
不細工な顔の魚は味がありますよね。でも私はサバの顔も、ひょっとすると一番かもしれないぐらい好きなんです。漫画みたいに線が簡略化されていて、潔い心地好さがあります。ブリの意外に目つきの悪い悪人顔もなかなかです。
Posted by uonofu at 2013年12月06日 00:47
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