2017年06月16日

マガキ Crassostrea gigas

Crassostrea_gigas

岡山は牡蠣の一大産地だ。とりわけ日生(ひなせ)と寄島(よりしま)の2か所が有名で、2014年の秋に訪れた日生では駅を出ると道の両側に次々と「カキオコ」(牡蠣たっぷりお好み焼き)ののぼりが立ち、港には牡蠣を扱う市が立って賑わっていた。揚げたてカキフライ7個入りを頬張りながら釣れない釣りをしていると、背後の水産加工場から白い作業着のおじさんが出てきて「これでやってごらん」と牡蠣の剥き身をくれた。これで?と半信半疑のまま餌を付けかえて仕掛けを沈めると、間もなく立派なセイゴが釣れた。ここでは魚も牡蠣を好むのか、ととても印象的だった。

そんな岡山の妻の実家に帰省すると、お母さんがいつも並べてくれるご馳走の中に決まってラインナップされるのがカキフライだった。ひと粒はそれほど大きいわけではなく、その分ぎゅっと滋味が詰まっている。なにしろどれだけ行儀よくしようとしてもつい箸が迷ってしまうほどのご馳走づくめだから、ひと口ふた口でパクンと食べてしまえるサイズがちょうどいい。しかも「カキフライには醤油」というのが妻の実家の風だから、ドスンと重いタルタルソースと違って質実に牡蠣の味が引き出されて食べ飽きない。それで皆ついつい食べのぼって、山盛りだったはずの大皿は空になるか、遠慮混じりの二、三粒を残すのみになってしまう。

おかげで僕もすっかり「カキフライには醤油」派になった。揚げたてを箸につまみ上げ、ひらりと手首をかえすとブレーンバスターのように頭から醤油の小皿に押し付ける。小皿の底に頭がコツンと触れると同時にパン粉が醤油を吸い上げ、逆に醤油の水面にはフライから滲んだ油のマーブル模様が浮かぶ。その様子を思い浮かべるだけで、醤油に引き立てられた牡蠣の苦み混じりの味わいが舌の上に蘇ってくるようだ。今年も季節になったら機会のあるごとにカキフライを食べようと思う、もちろん醤油で。


 
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2017年06月09日

ミスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus aruanus

Dascyllus_aruanus

魚の群れにはさまざまなスタイルがあり、そのそれぞれに特有の美しさがある。
ギュッと身を寄せ合って、塊のようになって泳ぐ小魚。近くの河口にときおり現れるそんな群れは、一瞬ひとつの大きな生き物のように見える。あるいは、映像で見るギンガメアジやバラクーダのトルネード。ダイビングのライセンスを取ったらいつか出会ってみたい光景だ。またあるいは、南米の茶色く透き通った流れに宝石を散りばめたかのような、カーディナルテトラの群れ。子どもの頃に憧れたこの燦めきを目の当たりにする日は果たして来るだろうか。

群れ姿の美しさと言えば、このミスジリュウキュウスズメダイも外せない。この魚が作るのは移動する群れではなく、ひとところにとどまる群れだ。それはたいてい、岩から張り出したり海底に小さく広がったりした枝サンゴの周囲に形作られる。その個体同士の、あるいはベースになっているサンゴとの距離の取り方に美しさがあって見飽きない。波に押された体をひらりと立て直して波の来る方へ頭を向ける傍ら、隣の個体との距離は常にしっかりと保っている。僕が近づいたり大きな身振りをとると、その危険度に応じてベースのサンゴを中心とした群れの半球が「わっ」と小さくなる。危険度がもっとも大きいときには、それぞれの個体はサンゴの隙間にしっかりと「収納」される。その動きには無駄がなく、すべての個体の頭の中に計算式が埋め込まれていて、個々の振る舞いをはじき出しているかのようにすら感じられる。

また微笑ましいのが、一つの群れに大小の個体が入り交じっているところだ。群れはいくつかの親子やきょうだいが集まったものなのだろうか、「こんな小さな子が!」というような個体が一緒になってその美しい運動を行なっている。もともと背びれ腹びれが大きくピンと張っていて見栄えのする魚だけれど、小さな幼魚ほど真っ黒な腹びれが不釣り合いに大きく見えて、さらにそこに目の醒めそうな群青が映えて美しく愛らしい。シュノーケリングでそんな群れを見かけると、ドタドタ潜ってはプカンと浮きそうになる体を岩にしがみついて制しながら眺める。そんな鈍臭いやり方でも、かれらの「とどまる群れ」は目の前からいなくならないのが嬉しくて、息の続く限り何枚も写真を撮ってしまう。


 
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2017年06月02日

クラカオスズメダイ Amblyglyphidodon curacao

Amblyglyphidodon_curacao

石垣島は周囲をぐるりとサンゴ礁に囲まれているのだけれど、一口にサンゴ礁と言っても場所によってその表情はさまざまだ。サンゴの塊が点在する穏やかな礁池を超えたところで荒波の下へゆるやかに入り込んでゆくところ。平坦な礁原から突如崖のようにスパッと海底まで落ち込んでいるところ。一見石垣島らしくない、構造的な岩場が絶え間なく波を受けているようなところもある。そしてやっぱりその表情ごとに、そこに暮らす生き物たちの顔ぶれや振る舞いも少しずつ異なる。

家の前は遠浅の砂浜で、ここはうんと潮が引いてもサンゴ礁の外縁が海面に姿を現わすことはない。浜から沖を目指して泳ぎ始めるとしばらくは丈の低い海草の原っぱが続く。それを抜けると足がつくかどうかぐらいの深さにポツンポツンと岩とサンゴの大きな塊が現れ、さらに進むといよいよ海底が遠のいて海そのものの圧力が増してくる。その向こうはそのまま濁った深みへと消えていったり、再び浅くなってから崖のように落ち込んだりする。

海底が遠のいてゆくと、そこから跳ね返る音が届きにくくなるのだろう、急にシンと静かになる。その静けさに海の茫漠たる大きさを感じて少し不安になるあたりに、クラカオスズメダイが群れている。6、7メートル下のサンゴの群落から上、水深をめいっぱい使って縦に広がったゆるやかな群れだ。統制のとれた動きはなく、個々がひらひらと陽の光を鱗に浴びながら、餌を摂るのか時折きらりと身を翻す。

海底に目をやるとブダイやニザダイの類の黒い影が滑らかに舞っている。ようやく「しらす」の段階を終えたばかりのようなグルクンの幼魚の群れが、パチパチと鱗を煌めかせながらザアッと通り過ぎる。突如目の前に現れた黒い影にギクッと身を縮めると、マングローブ林から流れ出たらしき大きな枯葉だ。それらが繰り広げられる無音の世界が、このクラカオスズメダイの群れから始まっている。


 
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2017年05月26日

カクレクマノミ Amphiprion ocellaris

Amphiprion_ocellaris_170526

カクレクマノミは浅場でシュノーケリングしているともっともよく見かけるクマノミで、たいていは複数尾でひとつのハタゴイソギンチャクを棲み家としている。ハタゴイソギンチャクは毛足長めのふわふわのラグのようで、しかも起伏に富んだ形をしているからクマノミたちはそこに身を埋ずめていかにも心地良さそう。けれどもそれにつられて「じゃあ僕も」と軍手のゴム面をほんの少し触れただけで、イソギンチャクはキュキュキュと身を縮めつつブチブチ音を立てるようにして無数の触手を貼り付かせてくる。ハタゴイソギンチャクは毒が強く、実際に刺されると痛みと痒みでかなり辛い思いをすることになるらしい。

クマノミとイソギンチャクの共生関係といえば、「クマノミはイソギンチャクに守ってもらい、イソギンチャクはクマノミから餌のおこぼれを得る」というシンプルな説明が古くからされてきた。けれども最近の研究によると両者の関係はもっと込み入っている。クマノミはイソギンチャクの粘膜や卵を少なからず食べているようだし、逆にクマノミがイソギンチャクを守っているおかげでイソギンチャクが大きく成長できるという側面もあるらしい。「持ちつ持たれつの関係」というのは傍から見る以上に複雑なものであって、あまりそこにしたり顔で口出しするものではない、という教訓を僕は得た。

棲み家のイソギンチャクを守るクマノミというのは勇敢なものだ。可愛らしい魚、というイメージがすっかり定着しているけれど、なかなかどうしてふてぶてしく逞しい顔つきをしている。オレンジ色のクマノミの姿が見え、そちらへ泳いでゆくと、かれらはまずイソギンチャクの前に立ちはだかって真っ向から対峙する。少しずつ距離を詰めても、左右にひらひら泳ぎながら顔は常にこちらへ向けたまま視線を切らない。それでも構わず近づいてゆくと、かれらがどうやら心の中に持っているらしい「このラインを超えてきたらアウト」の境界線ギリギリまで立ち向かう姿勢を崩さず、ついにそれを超えると慌ててイソギンチャクの中へ逃げ込む。その、ギリギリまで決して背を向けないありさまが僕は大好きだ。世を生き抜いていくには、断固として立ち向かう姿勢を示さねばならないこともある。その教訓にもまた、僕は顔を海に浸けながら深く頷いたのだった。


 
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2017年05月19日

ブリ Seriola quinqueradiata

Seriola_quinqueradiata

子どもの頃、我が家ではお正月の魚といえば「銀だら」だった。母が百貨店で買ってくるのは西京漬けと粕漬けの2種類。どちらもぷりぷりの身にたっぷりと脂がのっているのだけれど、口から鼻へと広がり抜ける香りが違う。前者はこちらの舌にとことん媚びるかのように甘美、後者はあと口にかすかな苦味(今なら、ある種の日本酒を飲んだときに口の中に残る感触と同じだと分かる)があって大人の味。いずれにせよ、それはそれは蠱惑的な味なのだった。

主張のしっかりした味に家族みんなして少し飽きたのか、いつの間にかその習慣から遠ざかり、さらには結婚して年末年始を妻の実家で過ごすようになって、お正月の魚は銀だらから「ぶり」に変わった。年の瀬になると、もともと鮮魚に力を入れている近所のスーパーには木箱に入った見事な寒ブリが並ぶ。その姿にはオーセンティックな「王道」感があって、舌にくっきりと刻まれた銀だらの蠱惑になかなかどうして劣らず魅力的なのだ。

大晦日は祖母の家で過ごし、まだ陽も沈まぬ夕方にはうんと早い晩ごはんになる。メインは自家製手打ちの年越しそば。それにぶりの煮付け、お刺身、竹輪やこんにゃくの炊いたのが、お母さんの立つ台所から次々運ばれてくる。そばを食べながら、うんと分厚く柔らかいぶりの煮付けに箸をつける。ふわりとした身から立ち昇る品のいい魚味は、野菜たっぷりのそばだしによく合った。

大晦日のテレビ番組を見終えて、かしこまった新年の挨拶をしたら寝支度。お母さんは毎年「明日はお餅いくつ?」と聞く。帰省してからのご馳走続きで満足しきっているお腹の調子を伺いながら「2個で!」とこたえると、朝にはキリリと透き通ったお雑煮に白い餅が確かに2個、ふやけて浮かんでいる。そこにぶりの煮付けをドンと載せるのがお父さん流。確かに、昨日そばと一緒に食べた時よりも透き通った味わいで滋味が際立つ。そうしてぶりの風味とともに、新しい年の訪れを実感する数日が進んでゆく。


 
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