
ご依頼いただいてマハゼを描いた。その方にとってマハゼは大切な思い出の魚ということだったのだけれど、僕にとってもまたマハゼは特別な魚だ。二十余年前、僕にも父にも初めての釣りが、福井県は三方五湖でのハゼ釣りだった。その旅行が決まってからというもの、僕は父と一緒に父の会社の「村田さん」に仕掛けの投げ方を教わったり、用具一式は村田さんにいただいているにも関わらず、前から気になっていた近所の釣具屋さんに意を決して飛び込んだりした。
ホテルの裏の小さな桟橋の先が、僕たち父子の初めての釣り場だった。日はとうに暮れて、背にしたホテルの灯りが、桟橋と海面をゆらりと橙色に照らしている。僕は気持ちをはやらせつつ、何度も練習した通りに天秤仕掛けを結び、夜釣りにいいと聞いた青いそめを袖針に刺して海に投げ込んだ。そして竿先につけた目印の黄色い光を、固唾を呑むようにして見つめた。次の瞬間にも、光が振れてハゼの魚信を伝えるかもしれない。そう思ってしばらく体を固くしていたけれど、その時はいっこうに訪れない。
「釣れない雰囲気」というのはあるもので、それを初めて身をもって感じたのがその時だったように思う。僕と父はそのうちすっかり緊張を解いて、背後のホテルの窓の光を眺めながら話をした。確か部屋を出るときにカーテンは閉めてこなかったから、自分たちの部屋はきっとあそこだな、と目星をつけた。竿先の光は結局震えることなく、僕たちは当然の流れで竿を仕舞った。初めての釣りは釣果なし、いわゆる「ボウズ」だったけれど、さほど残念でもなかった。釣りは、初めての海で次の瞬間に期待しながら、その場を感じているだけで気持ちが高揚するものなのだ。それは今も変わっていない。
都市河川にもいるぐらい身近で、いれば簡単に釣れ、釣り味もよく、食味もいい。そんなマハゼはきっと、今回ご依頼くださった方や僕にとってと同じように、いろんな方々の心に大切な思い出を埋め込んでいるんだろう。今度、ハゼを狙って釣りに行こうかという気持ちになった。