2017年10月20日

マハゼ Acanthogobius flavimanus

Acanthogobius_flavimanus_171020

ご依頼いただいてマハゼを描いた。その方にとってマハゼは大切な思い出の魚ということだったのだけれど、僕にとってもまたマハゼは特別な魚だ。二十余年前、僕にも父にも初めての釣りが、福井県は三方五湖でのハゼ釣りだった。その旅行が決まってからというもの、僕は父と一緒に父の会社の「村田さん」に仕掛けの投げ方を教わったり、用具一式は村田さんにいただいているにも関わらず、前から気になっていた近所の釣具屋さんに意を決して飛び込んだりした。

ホテルの裏の小さな桟橋の先が、僕たち父子の初めての釣り場だった。日はとうに暮れて、背にしたホテルの灯りが、桟橋と海面をゆらりと橙色に照らしている。僕は気持ちをはやらせつつ、何度も練習した通りに天秤仕掛けを結び、夜釣りにいいと聞いた青いそめを袖針に刺して海に投げ込んだ。そして竿先につけた目印の黄色い光を、固唾を呑むようにして見つめた。次の瞬間にも、光が振れてハゼの魚信を伝えるかもしれない。そう思ってしばらく体を固くしていたけれど、その時はいっこうに訪れない。

「釣れない雰囲気」というのはあるもので、それを初めて身をもって感じたのがその時だったように思う。僕と父はそのうちすっかり緊張を解いて、背後のホテルの窓の光を眺めながら話をした。確か部屋を出るときにカーテンは閉めてこなかったから、自分たちの部屋はきっとあそこだな、と目星をつけた。竿先の光は結局震えることなく、僕たちは当然の流れで竿を仕舞った。初めての釣りは釣果なし、いわゆる「ボウズ」だったけれど、さほど残念でもなかった。釣りは、初めての海で次の瞬間に期待しながら、その場を感じているだけで気持ちが高揚するものなのだ。それは今も変わっていない。

都市河川にもいるぐらい身近で、いれば簡単に釣れ、釣り味もよく、食味もいい。そんなマハゼはきっと、今回ご依頼くださった方や僕にとってと同じように、いろんな方々の心に大切な思い出を埋め込んでいるんだろう。今度、ハゼを狙って釣りに行こうかという気持ちになった。


 
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2017年10月13日

カサゴ Sebastiscus marmoratus

Sebastiscus_marmoratus_171013

生き物の絵を描く目的や理由は人それぞれだけれど、僕の場合は「自分に見えているその魚らしさを描き表したい」というのが動機になっている。だから、画業をなりわいとしている今となってはその動機ばかりに従って絵を描くというわけにもいかなくなっているけれど、元はといえば心の中に「その魚らしさ」のイメージができあがっていて、あとはそれを形にしていくというのが僕にとって「魚を描く」ということなのだった。

カサゴは、僕にそんな動機を与えてくれた魚だった。父と僕に釣りを教えてくれた村田さん、彼と初めて一緒に釣りをしたのは大阪・岸和田沖の一文字防波堤で、その日はサビキ釣りでのアジが大漁だった。そしてアジにも少し飽きた頃、餌をつけて沈めてあった父の仕掛けにカサゴが掛かった。村田さんは喜色を浮かべて「ガシラですやんか!これは美味いんですよ」と言った。その一言がなければ、魚の絵描きとしての今の自分はなかったかもしれない。その瞬間からカサゴは僕にとって特別な魚になり、釣り上げるといつもただちに岸和田一文字での憧れと高揚が新鮮なまま心に蘇った。カサゴを飼いたくて海水魚の水槽の設置を両親にねだり、設置して初めての週末に大阪・南港のかもめ大橋下の岸壁沿いで飼いごろサイズのものを釣り上げた。憧れの魚が常に手元にいる、寝ても覚めても!陶製の土管や岩の隙間に身を潜め、キョロキョロと表情豊かにあたりを見渡す小さなカサゴに僕はすっかり夢中で、毎朝登校のために家を出るのが名残惜しいほどだった。

そうして、すべての魚の中でもいちばんと言ってよいほどに、僕の心の中にはカサゴの「らしさ」が刻みつけられた。だからこの魚を描いているとき、僕はただ自分の心の中のカサゴと向き合っている。そしてそんな自分を「僕は僕の思う絵描きだ」と、誇らしく思う。


 
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2017年10月06日

アイナメ Hexagrammos otakii

hexagrammos_otakii_171006

アイナメ、というと思い出す風景がある。

20年前の大阪は泉南、貝塚市の人工島。父と週末ごとに海釣りに出ていた頃の、お気に入りの釣り場だった。まだ新しげなコンクリートの白と枯れ草色だけが延々と広がる埋立地にはおよそ人けがなく、当時は何かの用地として工事が予定されている風もなくて、ただ更地であることを目的に作られたかのように無機質で寂しいところだった。異質なのは、そんな中に廃車とも思えない活き活きした車たちがびっしり縦列駐車されていることで、それはつまりそこから15分ほども歩いた先にある突堤にやってきた釣り人たちの車なのだった。

食べられる魚が釣れたとき用、飼える魚が釣れたとき用、餌のエビを生かしておく用の3つのクーラーボックスに、用具一式が入った2つのバッグ、それに竿ケース。大荷物をガラガラに載せて早足に歩き、ようやく突堤にたどり着くとそれまでの人けのなさが嘘のように、釣り人たちが数メートル間隔でズラリと並んで糸を垂れている。そんな中でようやく釣り座を確保したら、あとはあまりウロウロせずに「待ち」の釣りをするのが僕たち父子の流儀なのだった。

潮の動きやマヅメ時を気にしながら、魚のいそうなところを次々探し歩いて釣りをする今にして思えば、限られた釣り座で昼前から夕方までじっと待ちの釣りをしていてよく釣れたものだと思うけれど、その頃の大阪湾はそれなりに魚影が濃かったらしい。退屈しないぐらいには魚が釣れた。そしてこの貝塚人工島は、僕たちが通う釣り場の中ではアイナメの多い場所だった。根に居付く魚らしからぬ棘のない滑らかな手触りと、細かな鱗にのったモザイク模様。それを見ると今でも、あの無機質な風景とたくさんの釣り人たちの姿が、当時の色のままにまぶたに浮かんでくる。


 
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2017年09月29日

アオリイカ Sepioteuthis lessoniana

Sepioteuthis_lessoniana_170929
銛に抗う

3月、島でお世話になっているYさんからイカ狙いの電灯潜りにお誘いいただいた。電灯潜りというのは読んで字の如く、懐中電灯を持って夜の海に入り獲物を突く漁だ。夜の海はやっぱり気が怯むし、石垣島でも3月の海はまだ冷たい。それでも電灯潜りを見られるというのはまたとないチャンスなので、ご一緒させていただくことにした。

連日吹き続けた強風がようやく弱まり、Yさんから決行の連絡をいただいた。既に日の暮れた海岸に立つと、波はまだ荒い。それでも性能のいい懐中電灯のふんだんな光量に勇気付けられて、揉まれながら海に入った。
夜の海は一見静かで、目が慣れてくると実は賑やかだ。ノコギリダイやムスジコショウダイが眠る岩陰を覗いていると時折テリエビスが泳ぎ過ぎ、ストンと深くなったホールではアカマツカサの類が目を光らせて小さく群れている。

ふと気づくと、前を泳いでいたYさんの光の動きが変わっている。早くも獲物を仕留めたのだ。放たれた水中銃の銛に刺し貫かれた大きなアオリイカが、墨を吐きひれをはためかせ、腕を銛の柄に絡ませて抵抗している。水深2メートルに満たない浅場で波に揺さぶられ、僕はイカとの間に適切な距離を取ることができない。押されて近づき過ぎ、引っ張られて離れ過ぎ、なんとか体勢を保とうとバタバタしているうちにYさんはイカにトドメを刺した。透き通った青みの上に美しい黄土色を纏っていた胴体が、たちまち生命感のない白みに変わる。墨はしばらくその場にとどまって波に揺られていた。

3時間ほどYさんの後について泳ぎ、海から上がった。Yさんは手早くイカを捌くと気前よく分けてくださった。帰ってさっそく刺身で食べてみると、小さなクワイカと違って肉厚で甘い。銛の柄に巻きついていた腕の必死さを思い出しながら、こういうのには日本酒だなと、お猪口に冷や酒を注いだ。


 
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2017年09月22日

メバル属の幼魚たち Sebastes spp.

Sebastes_spp
(上段左から) シロメバル S. cheni / ムラソイ S. pachycephalus / キツネメバル S. vulpes
(中段) クロソイ S. schlegelii / エゾメバル S. taczanowskii / タケノコメバル S. oblongus
(下段) シマゾイ S. trivittatus / ヨロイメバル S. hubbsi / オウゴンムラソイ S. nudus


同じ分類群に属するきょうだいのような魚たちを、並べて描き比べてみたい。その興味が、魚の絵にのめり込んでいったきっかけのひとつだった。そしてそれを満たすのに、このメバル属の魚たちは最高の相手だった。ハードルの低い堤防釣りでバリエーション豊かな面々に出会える可能性があり、その面々は格好良さと美しさ、いかつさと愛嬌を絶妙なバランスで備える点で共通しつつも、顔つきや体型、色彩には確かに個性の主張がある。

だから東京にいた頃の僕の釣りは、この仲間の魚に出会うことが常に最大の目的で、それはかれらをさがし求める旅そのものだった。小物狙いの僕が手にするのは小さなものばかりだったけど、煌めく魚体を手にしたときの感動は、時間と空間の座標の中にしっかりと居場所を張って僕の記憶に深く刻まれた。

風の吹きすさぶ真冬の堤防で釣友と防寒着を着て震えながら、あるいは連休にはるばる足を伸ばした賑やかな漁港の片隅で、はたまた会社仕事の出張の夜中にホテルを抜け出して辿り着いた岸壁で。そこに至るまでのすべてが−−子どもの頃の記憶までを含め−−ぎゅっと凝縮して込められた出会いの数々は、僕の人生全体を通して見ても実にかけがえがない。


 
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